蜜と蝶
蝶 と 蝶 6
「楽しみにしていたのに、ひどいです」
「ああ、すまない。今度持ってくるよ」
二ヶ月ほど前から関係を持ち始めた女。商家の娘でなかなかの器量だ。会うとなんだかんだとねだってくる。可愛くていい。今日も、頼まれていた宝玉があったのだが、うっかりと忘れてしまった。せっかく取り寄せた品を置いてくるなんてどうかしているな。近頃どうもイライラして集中力が落ちている。疲れているのか。
目当ての品を持ってきていないことに女は拗ねたが、抱き寄せると上目遣いに微笑んでくる。
「でもいいです。もっとほしい物が出来ました。今日のお詫びにそれをくださいませ」
「なんだ。言ってみろ」
「私を草寿様の花嫁にしてください」
女はねっとりとした視線をよこして魅惑的に微笑んだ。
「草寿様は婚約解消なされたばかりでお寂しいでしょう? 私ならばうまくやれますわ」
何を根拠に「うまくやれる」と言っているのか。
「ねぇ、いいでしょう? 」
「そんなに私の嫁になりたいか? 」
「ええ。叶当主の奥方になりたくない者などいませんわ」
「叶当主の奥方」ねぇ……。それは女が考えるような甘いものではない。私の嫁になれば贅沢三昧の暮らしが出来ると思っているのだろう。ちやほやされて甘やかされて優雅に暮らせると。正直、うんざりする。環と別れてから女に結婚をせがまれることが多くなった。どれもこれも欲に目がくらんでいた。恋人として楽しめても結婚相手としては不向き。分相応でいたら可愛がってやるのに、興ざめする。
――ついていない。
なんだか酷くふさいでしまう。女を抱いて発散させようと思って出向くと、欲深さを見せ付けられて不愉快になる。今日もそうだ。気分転換に楽しもうと思ったが不快になっただけ。この女とも終わりだ。急用を思い出した。と退席する。女は慌てて引き止めてきたが振り返る気にはならなかった。
――とにかく気持ちが滅入る。
原因不明。体調が優れないのか。そういうこともたまにはある。深く考えても仕方がない。しかし、せっかくの休日だというのにこんな嫌な気持ちになるなんて……こんなことならば家でゆっくりとしていればよかった。今からでも遅くない。とっとと帰って眠ってしまおう。
帰宅すると、母屋が賑やかだった。誰か客人でも来ているのか。そういえば明日は母が主催の茶会が開かれる。その前準備とかなんとかいって、友人が談笑でもしにきているのかもしれない。母の友人は苦手だ。年配者のお節介か好奇心か無神経さか言われたくないことをズケズケ述べてくる。触らぬ神に祟りなし。近寄らずに離れに戻ることにした。
自室に戻り窓を開放する。離れと母屋を隔てるように庭が広がっている。今の季節は紫陽花が美しい。丁度、出入りの職人が手入れをしている最中だった。去年から植木職人が代替わりしたが、私は今の職人が好みだ。古風さを残しながら斬新なものに仕上げていく。見ているとささくれ立った気持ちが静かになっていく。美しい風景は心を洗ってくれる。じっと見つめていると、一人の職人が花を摘んで、振り返り、家の中に話しかけている。呼ばれて母が出てきた。ついで、その後ろから――
「環? 」
――どうして環が…。
職人から束ねられた紫陽花を受け取り微笑む。花びらに触れて、香りを楽しむためか顔を寄せた。それからまたふわりと微笑んで職人を見る。花束を大切そうに抱えて、礼を述べているのだろう。環に見つめられたその職人は頬を朱に染めてしまりのない顔で笑っている。別にその花はその男が買ってきたものではなく、うちの庭に咲いているものだ。その男に贈られたような雰囲気なのが気に食わない。何をそんなに嬉しげな顔をしている。愛想笑いではなく、心底喜んでいる顔――見合いの日のことを思い出す。あの時も、環は見合い相手の男に笑顔を向けていた。楽しそうな顔。あんな顔を簡単に男に向けるなどありえない。凛としてお高くとまっているぐらいがいい。笑顔の安売りをするようなつまらない女だったのか。あれは私にだけ向けられていたものではなかったのか。イラつく。
そもそも、あいつはいったいここで何をしているのだ。別れた男の家にやってきてどういうつもりだ。信じられない。どういう神経をしているのかさっぱり理解できない。これは一言言ってやらなければならない。お前と私とはもうなんの関係もないのだから、やすやすと家にやってくるな、と。忠告しておく必要がある。そんなことまで言ってやらなければわからないなんて、迷惑な女だ。
私は母屋に向かった。自然と早足になる。心臓の音が早まっていくのを感じていた。胸が苦しい。怒りを感じて呼吸が激しくなっているのだ。早く、早く、早く――
「環」
客間の襖を開ける。母と環の二人が向かい合って座っていた。環の傍には先ほどの紫陽花の束。私の登場に驚いたように目を見開いた。
「なんですか。声もかけずに失礼ですよ」
母に咎められたが、そんなものに構っている暇などない。
「環……ここで何をしている」
こぼれそうな大きな目でじっと私を見つめてくる。状況についていけてないのか。私の問いかけに答えることもせず、ただ私を見ていた。呆然とし、惚けて、間の抜けたありさまなのにそれでも美しい。こんなに美しい女だったか。以前はもう少しキツイ印象があった。何かに追い詰められているような陰りが。だが今はない。スッキリとして、柔らかい。こんな雰囲気の女ではなかった。一体、何があったというのだ……。
「草寿。お前こそ何をしているのです。下がりなさい」
母の声に、我に返ったのか環は指を突いて丁寧にお辞儀をした。
「お前はここで何をしている」
もう一度問うたが、
「草寿! 環は私の客人です。これ以上の無礼は許しません。下がりなさい」
「……ですが、」
「ですがではありません。出かけていたのではないのですか。お前がいないから環を招いたのに……それをこんな風に押しかけてきて。どうしてお前はそうやって環が嫌がることばかりするのです」
「嫌がることなどしておりません。これは私にとって重要なことです。別れた女が頻繁に家に訪ねてくる……そんなことがあっては、私に新しい嫁のきてがなくなるではありませんか。いくら母の客人と言えど、世間はそうは見ません。違いますか? 」
私の言葉を母は黙って聞いていた。愚の根も出ない、と言ったところだろうか。代わりに答えたのは環だった。
「草寿様がおっしゃるのは最もなことでございます。私が浅はかでございました。どうぞお怒りをおしずめください」
「環。お前が謝ることはなにもない」
「いいえ。八依乃様のご好意に甘えすぎました。今後、叶の家の敷居をまたぐことはいたしません。本日限りでございますので、お許しください」
環は頭を下げたまま静かに述べた。言いたかったことを言い、それを素直に聞きいれられ、謝罪された。だが、この後味の悪さはなんだろう。胃の辺りから込み上げてくる焦燥感。動悸が激しく、全身から嫌な汗が流れる。――違う。私はそういうことを言いたかったわけじゃない。そう、否定してしまいたかった。しかし、じゃあ、何を言いたかった? それがわからない。ただ、環の姿を見て、じっとしていられなかった。
「草寿。これで気は済みましたか。下がりなさい」
母の辛らつな声が響く。これ以上は母の怒りに触れるだけだ。私が家にいるとわかったのだ。帰るとき挨拶にくるだろう。その時、話す時間がある。それまでには私の気持ちも落ち着いているだろう。ひとまず、この場は去ることにした。
2010/5/6
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