蜜と蝶
蝶 と 蝶 7
自室に戻ったが、まったく落ち着かなかった。
考えるのは先ほどの光景だ。環に言った台詞。あれは失言だったかもしれない。正論ではあったし、間違ったことは言っていないとも思うが…。そうだ。実際、環を可愛がることで弊害が起きる可能性はある。女は縄張り意識の強い生き物だ。元婚約者の存在は出来うる限り出さないほうがいい。環を家に招くことがいかにおかしな行動か、母だってわかりそうなものなのに……私に嫁が来なくても構わないのか? そんなはずはない。口ではどうでもいいと言っていたが叶の跡継ぎは必要だ。それとも、復縁を願っているのか? 私と環の仲をとりなそうとしている? だから環との縁が切れないようにしている?……いや、そんな風には思えない。仮にそうなら、環に見合い話など用意しないだろうし。…見合い……そういえば環の見合いはどうなっているのだろう。気にならないわけじゃない。だが、尋ねるのも癪だから知らぬ顔をしていた。もしかして決まったのか? だからその報告をかねてやってきた?
――そんな、
瞬時に感じたこともない嘔吐感こみ上げてきた。胸の中に広がっていく灰色の煙幕。それが徐々に黒へと移行し、ついには全てを闇に染めた。環のあの穏やかな表情も気にかかる。満ち足りたような柔らかい顔つきになっていた。幸せだからか? 満たされた人間の余裕? だから、私の言った言葉にも素直に謝罪したのか。ここへはこないとキッパリ言い切れたのもそのためか。あの潔さに唖然となった。週に少なくとも一度は来ていたのだ。この十八年ずっと。それをやめることに不安や寂しさはないのかと不思議でならなかった。受け入れたことへの衝撃は強く、今も残っている。嫁ぎ先が決まったからここへ来ることもない(来ると問題が起きる)からなのだろうか。
――気分が悪い。
本当に吐きそうだ。考えても考えてもろくなことを思いつかない。すべては私の想像でしかなく、つまらない妄想だ。たかだか考え事にどんよりしている自分がおかしい。そもそも環など関係ない。気に止めることもない。私たちは赤の他人だ。だが……。
それから半時ほど経過したが、環はまだ来なかった。話し込んでいるのかもしれない。今か今かと待つのは心臓に悪い。
――飲み物でも飲めば落ち着くかもしれない。
そう思い、母屋の台所へ向かう。すると、そこに母がいた。
「母上。こんなところで何をなさっておいでです」
「明日の茶会の茶菓子が届いたので確認しているのです 」
「茶菓子の確認なんて後でも出来るでしょう? 環を一人でほおっておいてすることですか? 」
「環? 環なら先ほど帰りましたよ」
「か、えった? 」
なんだそれ。どういうことだ。
「帰ったんですか? 家に? 」
「家に帰らずどこに帰るのです」
「……いつ? 」
「少し前です」
「……私のところに挨拶に来ていません」
私の言葉に母は一瞬、空白をつくった。それから不審そうな顔つきで、
「当然でしょう。お前のところに挨拶にいく理由がありません」
「何故ですか。私がいたら必ず顔を見に来ていたでしょう。なのにどうして今日に限って…」
「お前は何を言ってるのですか? それはお前の婚約者だったからで、何の関係もなくなった今、どうしてお前のところへ挨拶に行くのです? まして、あんな酷いことを言って追い返したのです。お前の顔など見たいはずがありません」
「ですが――っ」
私が言いかける前に、
「あの子が今日来たのは縁談を断ったお詫びです。やはりまだそういう気分にはなれないと……私も年齢のことを考慮するあまり環の気持ちを無視しすぎました。ですから招いて話をしていたのです。それなのにお前ときたら、環を前に新しい嫁を迎えにくいからここへはもう来るななどと非道なことを言ったのです」
「――っ。そんなこと私は知りませんでした」
「勝手におしかけてきて知りませんではすみません」
「……」
「もうお前は環に近づくんじゃありませんよ。嫌がられるだけです」
だから怒って帰ったと? 私の顔も見ずに? ……そんな、アレに関しては私も言いすぎたと思うところもあったし、だから挨拶にきたら謝ろうと思って……。いや、それより、環は縁談を断ったのか。まだそういう気分ではないと。それは私に対して未練があるということなのか。そうであるなら、復縁してやってもいい。母も喜ぶだろうし。適齢期の女を放り出したとよくない評判が流れているが、それも払拭できる。環にしても、このまま二十五を迎えて「行かず後家」など言われる可能性を考えれば、私との復縁は悪い話ではないはずだ。破談を持ち出したのは鴇塔だが、この際、それには目をつぶって、私から話を切り出してもいい。……ってああ、もう、面倒くさい。うだうだ脳内だけで話を進めても意味はない。少し前に帰ったというなら今追いかければその辺で捕まえられるだろう。玄関に向かう。後ろから「今更追いかけても無駄です」と母の声が聞こえた。「まだ間に合うでしょう」と振り返らずに告げると「そういう意味ではありません」と返ってきた。ならばどういう意味なのだ。脳裏をかすめた疑問。だが今はそれよりやるべきことがあったので無視してしまうことにした。
環の家に行くには分かれ道がある。どちらを通っても着ける。距離もほぼ変らない。どっちの道を使っているか……おそらくこちらだ。進んでいけば子ども達が遊べるように手入れされた小さな森が広がっている。私も昔よく遊んだ。懐かしい場所だ。環ならあの前を通る道を選ぶだろうと思った。
――いた。
ちょうど立ち止まってその森の中を見つめていた。声をかけようと近寄るが別の人影を認めて足を止める。……朝椰だった。何故、こんな時によりにもよって朝椰がいるのだ。先日、環に近づくなと忠告されたばかりだ、見られるとまずい。嫌味を言われるだけならまだしも、邪魔されては適わない。朝椰が去るまで隠れて待つことにした。しかし、別れるどころか森の中に一緒に入っていく。何をする気だ? 仕方なく気づかれないように後をつける。二人は備え付けられた遊具に腰掛けて談笑し始めた。軽い会話ならばあのまま立ち話でもいい。わざわざ移動して座ったからには長くなるのかもしれない。盗み聞きなどはしたないと思いながら気になる。やめろと思うのに、体は二人の傍へ近寄っていく。バレないよう、だが声が聞こえるくらいの場所まで距離を縮めていった――。
2010/5/8
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