蜜と蝶
蝶 と 蝶 8
先日お見合いをした。先方は幸いにも私を気に入ってくださったのだけれど、受ける気持ちになれなかった。優しく丁寧な方だったし、私の年齢を考えれば相当に素晴らしいお相手だということもわかっていたけれど、まだ無理だ。両親にその旨を告げると、怒るかと思っが、あっさりと納得してくれた。そればかりか、「お前の気の済むようにしたらいい」と言ってもらえた。そんな言葉が聞けるなど思っていなかったので驚く。私の身を心配し気遣ってもらえていることが嬉しかった。
気遣ってくれたのは両親だけではなかった。このお見合い話を持ってきてくださった八依乃様も同様だ。せっかくの縁談をお断りしたことを告げると「お前の気持ちを考えず無理強いしました」とおっしゃってくださった。謝罪するのは私の方なのに……お優しい言葉に尚更申し訳なさがこみ上げてきた。そんな私に、家に遊びにくるように誘ってくださった。庭に紫陽花が咲いたから、と。私が好きな花だ。叶の家の庭にさく紫陽花は一際美しい。直接お会いして改めてご報告と謝罪を述べたかったので、その誘いを受けることにした。
叶の家を訪れるのは久しぶりだった。談笑していると、突然襖が開いて草寿様が入ってきた。何事かと思いきや「別れた女が頻繁に家に訪ねてくる……そんなことがあっては、私に新しい嫁のきてがなくなる」と言われ合点がいく。最もだ。同時に、心臓がえぐられた。草寿様はとっくに前を見ていらっしゃることに。私は二の足を踏んで気持ちの整理がつかないなど言っているけれど、草寿様は私のことなど気に留めてはいない。婚約していた頃からそうだったけれど、改めて突きつけられるとまだ苦しくなる。そんな自分が滑稽だった。私も早く前に進まないといけない…。
「環」
ふいに声をかけられる。そこには、
「朝椰様」
呉羽当主・朝椰様。本来なら関わりあうことない方。朝椰様と草寿様は年が近いためよく一緒に遊ばれていた。そのご縁で、草寿様の後をくっついて追い掛け回していた私のこともご存知なのだ。
「元気にしているか? 」
「はい」
柔らかな表情だ。朝椰様は懐の深いかたでいらっしゃるけれど、感情表現はお上手ではない。初対面の人はたいてい恐れをなすような威圧感がある。呉羽当主としての威厳があっていい、という者もいるが優しさが見えにくく誤解されるのはもったいない。けれど、三年前に朝比奈から「痣の蜜」である栞祢様がこちらへ移り住むようなり、それから雰囲気が変わった。大切な人を見つけ、愛し愛されることはかほどに人を変容させるのかと驚いた。以前より格段に親しみやすくお優しい表情をなさるようになった。
「紫陽花か」
「はい……先ほど、叶の家にお招きをうけ頂いてまいりました」
「草寿のところへ? 」
「八依乃様にご紹介していただいた縁談をお断りしてしまったので、そのお詫びにお伺いしたのです」
私の言葉に納得したのか、朝椰様は目を細めた。それから、
「少し話せるか」
朝椰様もまた草寿様と私のことを気にかけてくださっているお一人だ。心配してくれている。私がうなずくと、朝椰様は森の中に入っていかれた。後追おう。備え付けられた遊具の腰掛けると隣りに座るように合図されたので従った。呉羽当主とこんな風に隣り合って座るなど奇妙な感じだ。恐れ多い。
「ここで私と草寿が大喧嘩した日のことを覚えているか」
朝椰様が言った。懐かしそうな声だ。
「はい」
「私は若く傲慢で、草寿が私に対等に物を言ってくるのが我慢ならず「私は次期当主だ。なれなれしい口を聞くな」と言った。草寿は真っ赤な顔をして去って行った。それを見ていたお前は、当然草寿を追いかけるものだと思っていたら、私のところへ残り言った。「朝椰様は盲目か」と。「草寿様は叶家の嫡男でございます。ですから、当然、皆に敬われる立場でございます。大人、子ども限らず、大切にされます。しかし、朝椰様が来ると、今度は皆が朝椰様を大事にします。それまで草寿様をちやほやしていた人間がすべて、朝椰様の方に気を配られるのでございます。それは草寿様にとってけして気分がいいものではござません。草寿様はいつも傷ついていらっしゃいました。ですが、そんな目に遭っても、草寿様が朝椰様のお傍にいるのが何故かおわかりですか? 草寿様がいなくなれば朝椰様の傍には地位や立場で態度を変える人間しかいなくなるからです。それをご心配して自身が傷つくのも厭わずに朝椰様のお傍にいるのでございます。そうやって朝椰様を慮っていらっしゃる草寿様に「なれなれしくするな」と申すのですか」と。」
草寿様は過敏な方だった。朝椰様が最も大事にされるのは当然のこと。だが、それを外側から見ているから言えることだ。ほとんど変らぬ年齢で、能力も容姿もなんら遜色ないのに、「家」という大きな存在により隔てられる態度。草寿様は周囲の人の態度に不信感をもたれていた。お寂しい想いをされていた。同時に、ご自身が朝椰様に嫉妬と羨望を感じていることにも苦しんでいらっしゃった。でも、草寿様は気位の高い方だ。そんな自分を悟らせることもお嫌だったのだろう。飄々とした態度をおとりになっていらっしゃった。考えないように、なんてことないと……でも、きっと、「自分が一番でいられる場所」を求めていらした。
「生意気な子どもでございました」
「いや、聡明な子どもだったよ。今もあの時のことを思い出す。お前が言うようなことが確かに起きていた。教えてもらわなければ、何も気づかず、草寿を失い、裸の王様になっていただろう。ずっと感謝していた。そしてお前に想われている草寿は果報者だなと思った。自分のことを見てわかってくれる人がいるのは幸せなことだ。それでようやく理解した。それまでお前が私そっちのけで草寿、草寿と追いかけるのを愚かにも馬鹿にしていたのだ。次期当主である私より草寿を優先するなど頭の悪い子だと思っていた。だが、そうじゃなかった。お前はそうすることで草寿を守っていたのだな。自分だけは何があろうと草寿を大事にすると主張していたのだろう? 違うか? 」
そうであればいいな、と思った。だけど、それは「草寿様が求める方」がしなければ意味がない。誰彼構わず出来るようなことではなかったのだ。そんなことも気づかずにいた。私では駄目だった。自分の無力さを知らない幼い子どもだった。
「……いいえ、それは買いかぶりというものでございましょう。ただ、草寿様が好きだっただけです。疎まれているのも気にせずに追い掛けまわす無知な子どもだったのです」
私の言葉に、朝椰様は静かに笑った。
「私は草寿様に大事に思われている朝椰様が羨ましゅうございました」
「私はお前に大事に思われている草寿が羨ましかったよ」
「ふふ。うまくいきませんね」
「まったくだな」
森を見渡す。当時と何も変っていない。この場所は、昔のまま、新緑が茂り美しい。けれど、
「……あの頃は、草寿様への想いを断つ日がくるなど夢にも思いませんでした」
「環…」
「けれど、これだけは申し上げられます。草寿様を好きだった日々に何一つ後悔はございません。私が草寿様を思うておりました気持ちは真実でございます。叶わぬ恋でしたが、私は幸せでございました」
報われなかった思いは、どこへ行くのだろう? 静かな場所で風化して消えていくのだろうか。そうであったとしても、私が草寿様を思っていたことを誰かに覚えておいてほしかった。本当に好きだったのだ。好きで好きで、何故そんなに好きだったのかよくわからないけれど。初めて、あの方を見たときに感じたのだ。この人だと、心が腑に落ちた。それが間違いだったとはやはり思わない。あんな気持ちは、きっと二度と味わうことはないだろう。だから、満足している。思えるところまで思ったのだ。成就こそ出来なかったけれど、後悔はない。
「私は、お前ほど愛情深い女を知らない。お前と結ばれる男は幸せだろう。そして、お前も幸せになる」
「……今度は、楽しい恋をしとうこざいます」
「出来るよ。大丈夫だ」
その言葉に、涙があふれた。婚約破棄から今日まで泣くことなどなかった。なのに、どうしようもなく後から後からこみ上げてくる涙。私の恋は終わったのだ。終わってしまった。本当に。実感出来ずにいたけれど、やっと、これは現実なのだと理解した。そしたら、涙がとまらなかった。長い長い夢から醒めた後のたまらない焦燥と喪失感に、私は気が済むまで泣いた。
2010/5/8
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