蜜と蝶
蝶 と 蝶 9
「いるのだろう? 草寿」
環が去った後、朝椰言った。気づいていたのか。聡い男だ。出て行くと朝椰は座っていた遊具から立ち上がった。
「まったく、お前は間がいいのか悪いのかわからんな。今の話はお前に聞かせたくはなかったよ」
私を見つめて苦い笑みをこぼした。
何も知らなかった。ここで朝椰と大喧嘩した後、数日して朝椰が謝りにきた。人に頭など下げているところを見たことがない朝椰が、「私が悪かった。許してくれ。私にはお前が必要だ。友達でいてくれ」と丁寧に謝罪するのだ。驚いた。それから、朝椰は私のことを誰よりも信頼し必要としてくれた。それに環が絡んでいたとは夢にも思わない。いや、それよりも、私が傷ついていたことを見抜いていたなど……。誰もそんなこと気づかなかった。私のことなど注意深く見ている人間などいないと思っていた。それが……。
何を言えばいいのかわからない。押し黙ると、
「どうした、冴えない顔だな」
朝椰は告げた。
「……お前も環も勘違いしている」
喉の奥から搾り出すような声がでる。今、言わなければならない。自分の気持ちを。そうしなければ永遠に言えなくなってしまう気がして、
「勘違い? 」
「そうだ。私は、」心臓が熱かった。ただ一言言うだけなのに、どうしてこれほど体から力が奪われていくのか。「私は……環を疎んでいたわけじゃない。……嫌ってなどいなかった」
言った瞬間に、力が抜ける。かわりに頬が上気するのがわかった。恥ずかしい。とてつもなく。いたたまれない。何をそんなに照れる必要があるのか。自分でも奇妙だった。だが、そんな私とは正反対に朝椰は素っ頓狂な声を出した。
「お前の態度はどうみても環を疎んでいた。今の告白を聞いて罪悪感でも感じたか? それでそんないい訳をしているのだとしたら必要ない。お前が環を嫌っているのは周知の事実だ。今更取り繕うことなどない」
「違う。そんなつもりじゃない。私は本当に環を嫌ってなどいなかった。嫌いなど言ったことは一度もない。」
今度はすんなりと言えた。嫌ってなどいない。そう、私は環を嫌ってなどいなかった。それを疑われるのは心外だ。叫ぶように否定した。だが、
「だったらどうしてあんな態度でいた? もう少し環に優しくしてやれと言ってもお前は聞かなかったじゃないか」
「……」
「好いた惚れたはどうにもならない。いくら愛されても、自分が好きではない相手では疎ましいだけ。それもまた事実だ。だから私も次第にお前に環を大事にしてやれとは言わなくなった。お前は環では駄目なのだとわかったからな。そのうち環も諦めるだろうと思ったし。素っ気無くされれば普通は諦める。優しくされたい、大事にされたいと思うのが人間だ。だが、環はそうじゃなかった。お前がどんな態度でいようともお前を慕い続けた。そして今日まで至った。しかし、やっとあの子もお前に「嫌われている」ことを受け入れたのだ。可哀相だが、同時に安堵もした。これ以上あの子が傷つかずに済むからな。今度は自分を見てくれる相手と幸せになっていけるだろう。それを今更お前が「嫌っていない」など抜かすな」
「だが、私は本当に環を嫌ってなどいない」
「草寿。仮にそうであったとしても、そんなことはどうでもいいんだ」
朝椰は悲しげな顔だった。同情されている? 痛々しいものを見るような、そんな表情だ。どうしてそんな目で見られなければならないのか。理解できない。自然と眉間に皺が寄っていく。
「お前が環を本当はどう思っていたかなどもうでもいいことだ。どう思っていたかより、どんな態度をとったか、それが重要なのだ。嫌ってないなら嫌ってないでもう少し他に対応があったはずだ。でもお前は一度として環を大事にしなかった。長年に渡るお前の冷たい振る舞いにより、ついに環はお前は諦めた。あの子はやっと次に進む決意をしたのだ。全て終わったのだ。だから今になって「嫌っていない」など口にするな。そんな言葉で惑わすな。長年思ってきた相手にそんなことを言われれば心が揺れる。だがな、環に必要なのは「嫌われていない」ことではなく「愛されること」なのだ。お前ではそれを叶えてやれない。もう環をこれ以上振り回すな。わかるな? 」
小さな子どもを諭すような口調。まるで私が何もわからない幼子のような。馬鹿にするな、と思う。振り回したりなどしない。ただ事実を述べているだけだ。私は環を嫌ってなどいない。誤解されたくない。何故それを告げるなと言うのだ。憐れんだ目で見るな。イライラしてくる。どうしてそんなわかったようなことばかり言うのだ。何様だ。これは私と環の問題だ。それを第三者のお前が「終わった」など言うな。聞きたくない。だが、朝椰は追い討ちをかけるように、
「もっと違う出会い方をしていればまた違っていたかもしれないな。本来人は成長する中で愛し愛されることを知っていく。だがお前の場合は違った。最も手に入らないものが、子どもの頃より傍にあり、絶え間なく注がれていた。それを幼い心では理解できなかったのだ。気付けなかったとしても仕方ない。これもまた運命というものなのかもしれない。縁がない二人だったのだ。お前と環は完全に道を違えてしまった」
――完全に道を違えた?
その言葉に心臓を貫かれた。目の前が真っ暗になる。自分を保てられないような衝撃、だから、否定しなければ、
「大袈裟すぎる。婚約は解消した。だが、会うことはあるだろう? 顔を見ることはある。関わる事だって」
「だが、その時は、お前の傍にはいない。お前側じゃない。環は他の男の奥方として「叶家のご当主様」にご挨拶する。そういう関係だ」
「……どうしてお前はそんな嫌なことばかり言うのだ」
「嫌なことじゃないだろう? 事実だ。お前が一心に受けていた愛情は、他の男のものになる。そしてそれをお前は了承した」
――っ。
他の男のものになる?
「私はそんなこと了承した覚えはない」
「寝ぼけたことを言うな。お前が望んだ。それでいいと婚約解消した。そうだろう? 」
「だけど……」
「草寿。もう遅い。考えるな。前にも言っただろう? 環の話を聞いて動揺しているだろうが、何も考えるな。忘れろ。それがお前のためだ」
2010/5/9
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