夕 凪 の 憂 鬱 3
彩未の部屋は随分と広かった。だが、やたらと物が散乱していた。服や靴、宝石類を柊夜がひっきりなしに買い込んでくるからもう収納する場所がないのだとか。これほど広い部屋だというのに、だ。柊夜が休みの日には着せ替え人形のように着えさせられているらしい。「可愛い可愛い」と喜んでいるのだろうな……ものすごく鮮明に想像できる。バカな男だ。
「それで、さっきの話の続きだけど柊夜が宴に行って、それでどうしたの? 」
「……それが、嫌なの」
「柊夜が宴に行くのが嫌なの? 」
彩未はうなずいた。
「……それは、自分以外の歌を食べてほしくないとかそういうこと? だから歌いたがったの? 自分の歌で柊夜を満たそうと考えたの? 」
だとしたら、それはもうどうしようもない。彩未の歌では柊夜ランクの蝶を一人で満たすことは出来ないし。かといって柊夜に蜜を食べるなというのは無理な話だ。だけど、
「違う。そんなことは思ってない。蝶が蜜を食べるのは当たり前のことだってちゃんとわかってる。私の蜜だけでは満たせないことも」
「じゃあ、一体何が嫌なの? 」
更に尋ねると、彩未は少し躊躇ったあと、言いにくそうにつぶやいた。
「部屋で二人きりになるから…」
「ん? 」
「柊夜様は呉羽本家の蝶だから、個室をあてがわれる。そこで、蜜と二人きりになる」
「うん。それで? 」
「それが嫌なの」
「二人きりになるのが? どうして? 」
「……柊夜様は、手が早い…」
そこまでいうと、彩未は真っ赤になった。
手が早いって、柊夜が蜜に手を付けると思っているということか? 宴に行って、蜜と二人きりになったら、柊夜がまた伽をして、蜜を連れて帰ってくると思っている? それで焼き餅を妬いているということなのか。
「そんな心配は杞憂というものじゃないか? 」
「どうして? 」
「どうしてって…」
「だって、私にはしたもの…」
「……いや、それは例外だから…」
どうやら彩未はいまいち自分がどれだけ特別扱いされているのか理解していないらしい。プライドの高い蝶が蜜に手を出すなんてことまずない。蜜が蝶に惚れることはままあるが、その逆は皆無だ。だから彩未は例外中の例外だった。それをまったく分かっていない。信じがたいが。
ただ、考えると不思議ではないかもしれない。彩未は宴に出たことがない。蝶と関わることがなかったのだから蝶がどういう生き物か知らない。そんな状態で最初に出会った蝶に――結果として彩未も柊夜を受け入れたからよかったものの――あんな無体な真似をされたのだ。本当に、柊夜の口説き方は尋常ではなかったから。いくら「蝶は本来、蜜を口説かない」と聞かされても、彩未自身が実際身をもって経験したことの方が強いし説得力がある。だから蝶は「手が早い」と思って疑っても無理はないのかも。また柊夜が蜜に手を出すと思って、嫉妬と不安を感じているのもうなずける。
「柊夜はなんと言ってる? 彩未は特別だと言われなかった? 他の蜜にはしないと言わなかった? 」
「言われた、けど」
「信じられない? 」
「柊夜様の噂はいっぱい聞いていた」
――柊夜の噂ね…
蜜から蜜へ飛びまわる可憐な蝶。柊夜に焦がれる蜜は多い。だが、柊夜は気まぐれで飽き症だった。お気に入りの蜜はすぐに変わる。一所にじっとしていない。寵愛を受けているうちに全てを捧げ、喉が潰れるまで歌う蜜もいた。危険で残酷な蝶。
「今はとても大切にされていると思う。でも柊夜様が宴に行くことは止められない。また、そこで、新しい蜜を見つける。そしたら私はここにいられなくなる」
なるほど。あんな噂(というか本当の話だ)があるのだ。自分だけが特別だと思う方が難しい。今、大事にされていることは事実でも、それは気まぐれに愛でているだけで、そのうち気が変わる。彩未は柊夜の態度をそう思っていたわけか。でも、彩未はそれでも柊夜を好きになってしまった。そして、いつ柊夜の寵愛を失うか怯えている。だから、
「それで、歌って死ぬなんてこと言ったの? 」
「私も、飽きられてしまう前に、歌いたかった。他に好きな人ができる前に全部ささげてしまいたかったの」
私はため息をもらした。冗談じゃない。あんな男のために死を選ぶなんて愚かな真似させるわけにはいかない。
「でも柊夜様は私の歌は食べないって言ったの」
そりゃそうだろう。柊夜は彩未を蜜としては全然見ていないのだから。女性として求めている。ただ、彩未が蜜としていたがるから話がややこしくなっている。彩未が蜜に固執しないのなら極力歌わせたくないのが柊夜の本音だ。そうでなくても彩未は喉が強くないのだし。あの男は歌って喉が潰れて彩未の命が危険にさらされることに本気で怯えている。憐れなくらい。彩未にはそれがまったく伝わっていないみたいだが。
「他の子たちにはしてあげたのに、私は拒否された…」
そこまでいって、彩未は再び泣き始めた。
――その解釈はどうだろう……。
彩未は歌えなかったから、歌に対して普通の蜜以上に執着がある。歌を食べられることが何よりも嬉しいのだ。だから、拒否されてショックなのはわかるが、蝶は蜜を愛しているから歌を食べるわけじゃない。どうも彩未はその辺の感覚が混濁している。柊夜が自分に言い寄る蜜の歌を食べたのだって愛や恋という甘い感情からではない。「蜜が歌えば食べる。蜜の喉が潰れて死のうが関係ない。歌うから食べたまでだ」そう言ってのける冷酷な蝶なんだ、あの男は。それが彩未にだけ拒否する。死なせたくないと拒絶する。「特別扱い」されている証拠だ。だが、彩未はそうは思ってない。呆れるぐらい根本的なところからすれ違っている。
それにしても彩未が柊夜の気持ちを刹那的な寵愛だと感じていたとは私も思わなかった。柊夜に本気で真剣に惚れられているなんて夢にも思っちゃいないことには驚く。
――あのバカ蝶。今まで何をしてたんだ。
そんな風に彩未に思わせているなんて、愚かにもほどがある。そういう話はしてこなかったのか? ただ可愛い可愛いとデレデレしていただけなのか? ありえないな。やっぱりあんな男にはまかせられない。彩未の話を聞く前は柊夜に肩入れしてたけど、あの男が悪い。情けない。甲斐性なしの蝶め。まぁ、彩未にも変な思い込みの強さがあるから、一方的に柊夜を悪者にするのもアレだが。いやしかし、本をただせば、柊夜が何もかも手順をすっとばして、強引に彩未を手に入れた結果だ。どうしてあの男の勝手で、彩未がこんな悲しい思いをしなくちゃならんのだ。
それでも、彩未は柊夜が好きになってしまった。だから泣いている。目眩がした。本当はあんな男から奪い返して連れ帰りたいところだが仕方ない。
「その話は、柊夜に直接してみるといい」
「え? 」
「きっとおもしろいことになるよ? 」
「おもしろいこと?……そんなこといったら、我儘だって嫌われるだけだ…」
いや、それはないと思うが…。柊夜がどれほど惚れこんでいるかわかっていない。あれだけ甘やかされているのに伝わってない。まぁ、私も彩未を散々甘やかしてきたから……甘やかされることに関して鈍くなってしまっているのだろうけど。その点に関しては育て方を誤った。柊夜にちょっとだけ申し訳ないと思う。
「けど、今のままでいたら、彩未は疲れてしまうよ? ずっと泣いて暮らすの? それとも柊夜のことは諦めて私と一緒に朝比奈に帰る? 」
「……」
「それは嫌なんだろう? 」
「……でも、どう言えばいいのかわからない…」
それは、そうかもしれない。こんなにすれ違っているのに柊夜がちっとも気づいてないのは、彩未の口下手のせいもあるだろう。(柊夜が浮かれて、彩未を可愛がるばかりで、ちゃんと見ていないせいもあるが)
「わかった、じゃあ、今回は私が話をつけてあげるから。でも次からは自分の気持ちをちゃんと言えるようにならなくちゃいけないよ? 約束できる? 」
彩未はうなずいた。
「そう、じゃあ、柊夜と話してくるから、彩未はここで待ってて? 」
私は彩未を残して、出入り口に向かった。
扉を開けると、柊夜が待ち構えていた。この男……ずっとここで貼り付いていたのか。呆れる。そんな暇があるなら、ちゃんと彩未のことを見ていてやれ。
「彩未は? 」
「中にいるが……お前に彩未のことで話がある、ここでは話せないからどこか場所をうつしてくれ」
柊夜は顔を顰めたが彩未とことと言えば聞かないわけにいかないのだろう。しぶしぶながら応接間まで案内してくれた。
2010/4/7