恋の罠U 5.素直な気持ち
やめておけ、と。そんなややこしい男じゃなくても別にいいじゃない。もっと他に優しい人はいる。真千子さんの話を聞いて同情してるだけ。同情から動いてもきっと長続きなんてしない。途中で嫌になる。そしたら余計に傷つけるだけだ。聞かなかったことにして、無視してしまえばいい――正しい私が何度も言った。でも、気づけば晶規のマンションまできていた。
難しいことや先のことはどうだってよかった。ただ、会いたかった。私を待ってくれているというのなら、会いたい。それだけ。
インターフォンを鳴らす。
真千子さんの言ったことを疑っているわけじゃないけど緊張した。今更何? と冷たく言われるかもしれない。追い返されるかも。
少しして「はい」と応答がある。
「あの、」
「……咲穂?」
すぐにオートロックが開いた。少しだけほっとする。扉をくぐって、エレベーターに乗り込む。七階。一番端の角部屋だ。部屋の前のインターフォンを鳴らそうと指を出す。心臓が飛び出してきそうだ。これを押して、彼に会ったら、私は何を言えばいいの。わからない、でも、ここまできて後には引き返せなかった。
ピンポーン。と鳴り終わる前に扉が開いた。
「あっ」
ダルそうな顔。疲れて見える。
「入れば?」
短く告げられた。私はそれに従って中に入った。無言で進んでいく彼を追う。
リビングに足を踏み入れて絶句した。いつも綺麗に掃除され、生活感を感じさせないほど整っていた部屋は引っくり返っていた。衣服は適当に脱ぎ散らかっているし、テーブルにはカップ麺の容器やペットボトルの水、ビールの空き缶が倒れている。不健康な生活をしていたことが一目でわかる。
「ちゃんとご飯食べてるの?」
「食べる気がしないんだ」
「……ダメだよ。すごく痩せてるし、このままじゃ倒れる」
「なんで?」
「なんでって?」
「俺が倒れても咲穂は別に困らないでしょ? なんでそんなこと言うの?」
「困るとか困らないとかいう問題じゃないでしょ。倒れたら心配する」
「心配? なんで?」
まるで幼い子どものようにしつこく聞いてくる。
今、振り返ってみると、晶規は常にこうやって私の行動の意味を聞いてきた。どうして? なんで? 私にある言葉を言わせようと必死だったのだ。けど、私は、それを言ってしまったら負けだと思って言わなかった。故意に言わせようとする晶規のことが理解できなかった。そうやって私の気持ちを弄んで楽しんでいるんだと憶測し、だからいつもはぐらかしていた。でも、
「晶規のことが好きだから」
言うと、彼は私を見つめた。
「それって本気? それとも俺とやりたいから言ってるだけ?」
それは普通女の台詞ではないのか。呆れた。けど、不思議と嫌な気はしなかった。何度も何度も繰り返し言って欲しい。不安を否定して欲しいのだと分かったら可愛く見えてしまう。方法はひねくれているけれど。
「私は晶規のことが好きだ。だから、心配する。それじゃ、いけない?」
晶規は黙った。そのままペタンと崩れるようにソファに座った。
「そう。俺のこと好きなの」
それだけ言うと、また黙った。
私はとりあえずこの散乱した部屋を片付けることにした。衣服を洗濯機に放り込んで、食べ残しや飲み残しを処分し、掃除機をかけた。
晶規は大人しかった。ただ、じっとして待っていた。すっかりやつれてしまっているので、おかゆを作って持って行く。
「これ食べて?」
だけど晶規はじっとしたままで、
「晶規?」
惚けていた。
真千子さんがこの一ヶ月ろくに寝ていないと言っていたし、二日前保健室で晶規自身がそう言ってた。それは事実らしく、目の下には大きな隈が出来ている。限界がきて目を開けたまま寝てしまった? ……わけではないらしく、ゆっくりと私に視線を向けた。憑き物が落ちたみたい、というのはこういう表情なのかもしれない。
「咲穂……」
名を呼んで抱きついてくる。呼吸もままならないほど強く抱きしめられて骨が折れるかと思った。こんな風に力任せにされたことはないので困惑した。そのまま、キスしてこようとしたので晶規の口を両手で押さえてやめさせる。
「何?」
不機嫌そうな声だけど、ひるんではならない。私は彼を好きだと告げたけど、彼からは何も聞かされていない。ここで流されてはいけないと思った。晶規が不安なように、私だって不安なのだ。
「あなたが私のこと好きじゃないならセックスはしない。愛のないセックスはもうしない」
だけど、私の台詞に晶規は露骨に嫌な顔をして、
「なにそれ? あんたのこと『愛もなく』抱いたことなんて一度もないけど?」
――っ。
「あんたこそ、愛もなく抱かれてたの?」
「……そうじゃないよ」
「じゃあ、どうして来なくなった?」
苛立たしげだ。余程根に持っているらしい。それだけショックだったのか。
「来ようとはした。というか、何度かマンションの下まで来た」
そう、 この一ヶ月の間、何度かマンションまで来たことがある。でも部屋を訪れるまでの勇気はなかった。
「は? なのになんで帰るの?」
「だって……他に誰かいるかもしれないと思ったら、怖くて」
「誰かって誰だよ」
「言ってたじゃない。私がこないなら、他に誰か呼ぶって」
「あんた、頭いいのに馬鹿だな。あんなのヤキモチ焼かせるために言っただけだよ。つーか、俺、最初に言ったよね。家に女連れてきたことはない。あんたがはじめてだって。それ考えたら、家に誰か呼ぶとかありえないってわかるでしょ」
「じゃあ誰も呼んでないの?」
「呼んでないよ。この一ヶ月誰ともしてないし。毎日毎日今日こそ来るかもしれないって思って気づけば朝で、殆ど眠れなくって三キロやせたんだけど。責任とって」
「本当に……してないの? 誰とも?」
「あんた、ホント、俺のことなんだと思ってるわけ? つーかもう限界なんだけど? 一ヶ月もほっとかれたし」
そういってニヤっと笑った晶規は、さっきまでしょぼくれていた姿とは違う。私が知っている不遜で傲慢な男の顔に戻っていた。人間そんなにコロコロ落ち込んだり立ち直ったり出来るものなのか。
「ってちょ……待って、それより先に、することがあるでしょ」
再びキスをしかけてこようとするので叫ぶ。食事をして寝るべきだ。だって倒れそうなほどふらふらしていたのだから。けれど、
「あんた抱くことより優先させることなんてこの世にあんの?」
それは殺し文句としてはものすごく強力だ。そして、強烈な色気をふりまいて微笑む男にどうやっても勝てる気がしない。
「黙って抱かれて?」
なんだか釈然としないのは事実だけれど、私がこの男を好きになってしまったのだ。そんな私を愚かだろ思う人はきっと多いだろう。けれど、恋する相手は選べない。愛しい男のキスを受けながら、これからの前途を思う。……洋々ではないだろう。ただ彼に「愛されている」ことは間違いなさそうなので、これはこれで一つの幸せなのかな。と、男の腕に身をゆだねてみることにした。
2010/2/14
2010/2/22 加筆修正