体育館の一件からしばらく私は注目された。
「怒らせると恐い」と言われるのはまだいい。中には私が翔吾を好きで、倉島さんに嫉妬して殴りかかったとか……噂って恐い。だからといって自分がしたことを撤回することは出来ない。撤回したいとも思わないし。どうすることも出来ないまま時間だけが流れた。
人の噂も七十五日とはよくいったもので、徐々に状態は落ち着いていった。二学期が終わり、冬休みが明けて、三学期が始まり、やがて春休みに入る頃には、ようやく日常を取り戻した。ただ、ちょっとだけ人間関係に変化が生まれたけど……。
「超カッコいいんだって。あんたたちも見たら絶対好きになる」
斎木が黄色い声を上げた。
「あんたの情報は当てにならないからねぇ。最近、どんな男をみてもカッコイイって言ってない?」
私がうんざりして言うと、
「いや、本当。今回はマジで。大学生よ。大人よ。大人〜」
と力説してくる。それに冷静な発言をするのは蛍だった。
「……今はそれより大学受験にそなえて勉強した方がいいんじゃない? 私たち今年は受験生だし」
「何言ってんのよ。恋に休息はないのよ。恋より大事なものがある?」
「人生設計の方が重要でしょう?」
そう。奇妙なもので、あれから私と斎木萌々羽と倉島蛍は一緒につるむようになった。共通の出来事は仲間意識を産むというやつだろうか。話してみると意外とおもしろくて、ケンカも多いけど、気兼ねしなくていいので楽だ(周囲の人間には奇怪に見えたみたいだけど)。
今日も三人で買い物にきていた。ただ見事に好みが違いすぎて途中で言い合いになった。結果、別行動することに……。そして、二時間、ファストフード店に集合し、今に至る。一通り、お互いの買ったモノを見せて、ああでもないこうでもないと話した後は、男の話だ。まぁ、ほとんど斎木がどこそこの誰がカッコイイと一人で浮かれているのだけど。
「あーあ。それにしてもどうしてあたしにはカッコイイ彼氏が出来ないの! こんなに頑張ってるのに!! 倉島なんてこないだも三組の新藤君に告白されてたわよね。なんでよ? あんた一体何してんの? しかも振ってるし」
「頑張ったからって出来るもんじゃないってことよ」
「……その余裕ぶりがムカつくわ」
この二人は仲がいいのか悪いのか、会話を聞いてるだけじゃ計り知れない。私は黙って見ていた。すると、
「それよりも、私はちぐさの方が気になるな」
蛍が意味深な視線を投げてくる。
「ああ、あたしも気になってた。その後どうなった? あたしたちに気を遣うことないから言いなさいよ」
「その後って、何が? 私は何もないよ。知ってるじゃない」
斎木と蛍は顔を見合わせてニヤニヤする。私は仲間はずれにされたようで眉根を寄せた。すると斎木にデコピンをくらわされた。なんでそんな目に遭わなきゃならないんだ。額をさすりながら理不尽な仕打ちに更に顔をしかめた。
だらだらと過ごす春休みの終盤だった。――突然、翔吾が家に来た。
私の兄弟とも仲が良かったから遊びにくることはあった。ただ、事件以来、翔吾が来る時は、私は席を外すようにしていた。避けていることは一目瞭然だった。翔吾自身もわかっていただろうし、私の家族も不自然さに気づいていただろう。気配りなのか面倒くさがってなのか深く聞かれることはなかったけど。だから安心していた。それなのに、いきなりやって来たのだ。水曜日の午前中。父と長男は仕事、次男はバイト、弟は部活。家には私一人。わかっているはずなのに……。
「何?」
口をきくのは半年振りくらいだ。それまでも、しょっちゅうケンカはしていたけど一週間以内で仲直りをしていた。でも今回は違う。たぶん関係修復は無理だろうと思っていた。人前であれだけのことをしたのだから当然だ。私は謝る気はなかったし。このまま仲違いしたままでも構わないと覚悟していた。
「話があって……ちょっといいか」
「あがる? お茶ぐらい出すよ」
翔吾は黙ってついてきてリビングテーブルの定位置に座った。食器棚から翔吾用のマグカップを出してコーヒーをいれた。砂糖なしの粉ミルクが一杯半だ。テーブルに置いて、翔吾の正面に座った。久々に向き合ったけど、少しだけ頬がこけて、男っぽくなっている、ような気がした。翔吾は出したコップの端を齧るようにして冷ましている。昔からの癖だ。
「……蛍と別れたんだってね」
我ながら不躾だなと思った。オブラートに包むことが出来ない。どうしたって不自然な話運びにしかならないなら、いっそう切り込んでしまえと勢いに任せた。翔吾は無表情だった。
「ああ、結構前だけどな」
テーブルの木の模様を凝視して言った。一点を見つめて考え込むような。
蛍と別れてから特定の彼女はいない。遊ぶ気にもならないみたいだ。それほどショックだったのだ。
「余計なこと言ったっかもって気にはなってた」
盲目になって蛍のことしか見えていなかったけど、恋をすれば誰だってそうなる。当事者にしかわからない気持ちがある。翔吾にも言い分があるはずだ。それを聞かず、第三者が口を出した。そこに関しては申し訳ないと思う。
「まぁ、あの後しばらく悲惨だったな。話したことないような奴から『最低男だ』とか罵られたり。事実だから仕方ないし反論できないけど。でも、出来事のみを見て判断されるって腹が立つな。俺が、体育館で蛍に嫌味をいう女に言ったことはこういうことなんだって身にしみて実感したよ」
翔吾は顔を上げた。その目には私への怒りや憎しみはなかった。苦しげだった。迷いと不安。見たことがない表情だ。かける言葉が見つからなかった。
「……今まで俺は、自分が悪いことしてるとは思っていなかったんだ。もちろん誉められたことじゃないし、いいことをしてるとも思ってなかったけどな。でも俺の噂を知ってても、言い寄ってくる女はいる。本当に酷いことしているなら、そんな奴もいないだろうって思った。だからお前には時々窘められていたけど聞く耳を持たなかった。相手が求めてくるのに、どうして俺が責められるんだ? って。体育館でお前に怒鳴られた後も、最初は怒りの方が強くて、お前のこと憎んだよ。人前でなんであんな恥かかされなくちゃいけないんだって」
「うん」
「でもさ、時間が経過していくうちに、はじめて、自分がしてきたことを人がどう思うのかじっくり考えたんだ。付き合い始めは優しくて可愛い女が、そのうちしつこく電話やメールをしてくるようになる。ヒステリックに怒ったり泣き喚いたり。猫かぶってたのが本性を見せたんだって解釈してた。性格の悪い女に手を出してしまった。騙されたのは俺だって思ってた。だから自分の見る目のなさを反省することはあったけど、俺がそういうことをさせてるなんて、お前に怒鳴られるまで考えたことがなかった。俺が追い詰めていたなんて信じたくなかった。けど、認めるしかなくて……そしたらどうしていいかわからなくなった」
翔吾の話は混乱していた。考えてきたことが、とりとめなく溢れて、とまらなくなった。そんな感じだ。この半年、彼なりに自分の今までを振り返って苦しんできた。たどたどしい言葉だけど、それは伝わってくる。
「結局俺は自分のことも相手のこともちゃんと見てなかったんだ。自分に居心地良くて楽しいものを求めていただけだ。それがわかって、自分のことがすげぇ恥ずかしくなった。今まで俺が適当に扱った女にも悪いことをしたって思った。それにちぐさにも……お前が人前で怒鳴ったりするのなんてよっぽどだ。あんな風な真似をさせてしまって、ごめん……。これまでずっと、ちぐさが俺を窘めるようなことを言うたびに、内心鬱陶しいって思ってたんだ。でも、この半年、ちぐさに避けられて、口も利いてもらえなくなって、やっとさ、お前がどれだけ俺のことを思って言ってくれてたのかわかった。今更かも知れないけど、」
許してほしい――最後はほとんど聞き取れないほど小さな声だった。懇願するような切ない響きだ。翔吾は深い息を吐いて、もう一度、今度ははっきりと言った。
「ちぐさに避けられたり、無視されるのが辛い。……俺、変わるから、もう一度だけチャンスがほしい」
「私に許されたからって、翔吾が女の子たちにしてきた振る舞いが許されるわけじゃないよ」
「……」
「この半年、翔吾が真剣に自分のことを省みたことはわかった。でも、変わるって言葉で言うほど簡単じゃない。『人の気持ちを考える』って気づいたからすぐに出来ることじゃないよ。時間をかけて一歩ずつやっていくしかない。自分の未熟さを受け入れて、そこからはじめなくちゃいけない。それはとても辛くて苦しいことだ。本当にわかってるの?」
翔吾は黙っていたけど私から視線をそらすことはなかった。変な感じだ。長い付き合いだけど、翔吾とこんな風に見詰め合ったことは一度もない。落ち着いた眼差しは、知らない人みたいだった。だから、
「でもまぁ、私も人のこととやかくいえるほど立派な人間じゃないし、翔吾とこのままギクシャクしてるのも嫌だしね。執行猶予つきでなら認めてもいいよ。罪を憎んで人を憎まずってやつ?」
「本当か?」
「うん。十年一昔っていうし、むこう十年、真面目に生きたら改心したって認めるよ」
「十年……」
「不服なわけ?」
「いや、滅相もないです。頑張ります……」
「あんまり期待はしてないけどね。性格ってそんなに変わるものじゃないし。せいぜい努力して、いい男になりなさい。次にまた『真実の愛』に目覚めた時、相手の女に堂々と告白できるぐらいの潔白な男にね」
「……嫌味を言うな」
翔吾は苦い顔をした。
2010/3/22