「それにしても、やっと落ち着くところに落ち着いたわね」
斎木は生ビールのジョッキを片手に言った。男受けがいいからと伸ばしていた髪は「仕事に生きる!」と突然宣言し就職した途端切った。以来、ずっと短い。顔が小さいからベリーショートがよく似合う。そして宣言通り仕事に生きている。皮肉なもので、恋愛オフモードになってからモテた。軒並み振っていたけれど、最近ちょっといい感じの相手が現れたらしい。うまくいくかはわからないけど、ぼちぼちやっているそうだ。
「本当に長かったね」
蛍は結婚した。相手は大学時代家庭教師をしていた教え子だ。三歳年下。彼が大学を卒業した時、強く結婚を望まれたが蛍は拒んだ。学生と社会人は違う。世の中に出てみたら視野も広がるし、いろんな人に出会う。何も知らないままで結婚して後悔されたくない。逃げ腰の蛍を、「じゃあ、一年経って気持ちが変わらなかったら結婚しよう」と説得した。で、約束の期間が過ぎると、有無を言わせぬ強引さで(それはそれは見事な周到さだった)籍を入れた。結婚式は来年だ。先に籍だけでも入れたかった彼の情熱ぶりは私たちの間では永遠に語られるのだろう。
「……私はこういう展開になるとは思わなかったけど」
私は困惑気味に述べた。
この十年間。私は二度、恋をした。正確には恋愛っぽいもの。
初めは大学に入ってすぐだ。相手は同じサークルの人。私の身近にこれまでいなかったような、物静かで柔らかい雰囲気を持っていた。相手も憎からず思ってくれていたらしく、何度かデートして、イベントなんかも一緒に過ごした。「付き合おう」とハッキリと言葉にしたわけではなく、されたわけでもなく、ただ周囲からは恋人だと思われた。だけど、男女のそういった雰囲気にならなかったし……卒業と同時に連絡は途絶えた。会わなくなっても私も彼も平気だったのだ。あんなのは恋愛とは呼べないのかもしれない。
二度目は、就職先の先輩に誘われた合コンで知り合った男だ。やたらと情熱的で熱烈に口説かれた。毎日のメール、電話。マメな男だった。ただ、その反面、同じだけのことを私にも求めてきた。私はそれにこたえることが出来なかった。「気持ちが見えない」「俺のこと本当に好き?」繰り返される詰問。寂しいと言われ続けた。私の愛情では足りないと。結局彼は、別の女の子を選んだ。私なりに彼を好きだった気持ちはちっとも伝わらなかった。
――やっぱり私は恋が出来ないのかもしれない。
可愛らしい、砂糖菓子みたいな甘い恋。それがどういうものなのか見当がつかない。「考えすぎだ」と言われた。もっと楽にしたらいい。でも「楽に」というのがわからなかった。自分の気持ちに素直になれない。だって、兄弟の壮絶な恋愛を間近で見てきたんだもの。恋をして狂ってしまった女を。自分も恋をしたらそうなるのだと思うと、おそろしくて絶対嫌だと思った。だから一人でいい。もう、私は一人で生きるんだと思っていた。だから、昨今の婚活ブームに逆行するように、なんの努力もしない。休日は友人と遊んだり、一人で好きな映画を見たり、美術館を巡った。これが私の人生なのだと半ば開き直っていた時だった。
「俺と付き合ってほしい。将来的に結婚も視野に入れて」
なんの悪ふざけ? と思った。
「十年経ったし、俺を潔白な男だって認めてくれるだろう?」
翔吾ははにかんだように笑った。昔の面影は残っているが、精悍な顔つきは大人の男だった。確かに彼は本当に心根を入れ替えたらしく、大学時代は勉強に打ち込んでいた。あれだけのルックスをしていながら彼女も作らず、遊びで女と寝るようなこともなく、真面目な学生だった。そのせいで一部ではゲイ疑惑も出るほどだった。その甲斐あってか、就職は希望が叶い証券会社に内定した。社会人になってからは仕事に忙殺される日々を過ごしていた。入社一年目から残業は当たり前で、たまの休みは家で寝ている。具体的にどういうことをしているのか聞くことはなかったけど、結構いい営業成績をあげているらしく、おばさん(翔吾の母)が近所の人に自慢しているのを聞いた。定時に上がれる私とは雲泥の差で、ただただすごいなぁと思っていた。そんな生活で彼女が作れるはずもない。でも、顔がよく、仕事も出来るとあれば、そのうち可愛い彼女ができるんだろうなぁと思っていた。順風満帆な人生だな、なんて思った。それが、何故?
「話が飛びすぎていて見えない。潔白な男だと認めるとか、何?」
「……お前、それは何かの冗談か?」
冗談なのはそっちでしょ、と黙っていると、翔吾は柳眉を寄せた。
「十年前の今日、ちぐさが俺に言ったんだよ。十年一昔。十年間真面目に生きたら、俺が今まで女の気持ちを軽く見て弄んだ罪を許してくれるって、改心したって認めてくれるって言った」
「確かに、そんなことを言った気がする」
「で、今日が丸十年目」
「なるほど。それで潔白だという意味はわかった。で、どうして付き合うとかいう話になるの?」
「どうして? 俺は告白しても許される身になっただろう?」
「いや、そういうことじゃなくて……」
どうも話が噛みあわない。
「つまり、私が言いたいのは……あなた、私のことが好きなの?」
「……! えっと、ごめん、ちょっと今、急激な眩暈がした。根本的に俺が認識を間違っていたわけ? お前がさ『十年たったら改心したって認める』って言ったのは、じゃあどういう意味?」
「どういうって……あんまりすんなり仲直りするのも癪だし、そんぐらい言ってやれと思って」
「俺は、十年したらお前が俺と付き合ってくれるって意味だと思ってたよ?」
理解できなかった。私はただ翔吾を見つめた。翔吾は物凄く苦々しい顔をして、
「……どうりでな……お前、この十年の間に彼氏作ったりしてたもんな。なんて女だと思ったんだ。俺が言える立場じゃないしと思って黙ってたけど……」
ため息。そして、明らかなる落胆と絶望の呟きだった。
「なぁ、一つ聞いていい?」
「何?」
「ちぐさは、俺がこの十年真面目に生きてきたのはどうしてだって思ってたわけ?」
「改心したからじゃないの?」
「まぁ、確かに改心はした。でも、本命の彼女もつくらず、勉強と仕事に打ち込んできた。十代後半から二十代のほとんどを、自分で言うのもなんだけどストイックに生きてきた。それは健全な男としては不自然だろう? そこまで徹底するからには、意味があるんだよ」
「意味?」
「そう。俺はこの十年、お前に堂々と告白するために生きてきた。お前はさ、幼馴染としての愛はあっても、男として俺のことは軽蔑してたろ。俺が傷つけた女の姿を見てきたし、俺の幼稚な考えを聞かされてきたから、絶対受け入れてもらえないと思った。けど、十年したら時効だって言われて、だから十年かけて証明してきたつもりだ。まさかそれが全く伝わってなかったとは思わなかったけどな」
驚いた。私のために頑張ってきたというの? 信じられない。だって、
「あなた、私のこと好きだなんて素振り全くなかったじゃない。いったいいつから好きだったっていうの?」
「まぁ、確かに、俺にとってお前は安全圏の人間だったのは事実だ。でも、体育館でお前にガツンって言われて、本当に自分がバカだったって気づいたんだ。たぶん、ああやってお前が言ってくれなかったら、俺は気付かないままだったと思う。人の気持ちを踏みにじってることもわからず、思いやりってものも知らず、わかったようなことを言って生きてた。悲惨な人生になってた。たぶん、悲惨であることさえわかってなかったと思う。そんな大事なことを教えてくれた女に惚れない奴はいないだろう?」
あの時から私を好きになったというの? 翔吾が私の言ったことを真面目に受け止めてくれていたことは純粋に嬉しい。ただ、それが惚れた腫れたの話に発展してしまうものなのか。恋のきっかけなんて些細なことだというけど……。
「十年経過したからって過去のことが本当に消え去るわけじゃない。でも、俺は二度と女の気持ちを弄んだりしない。お前を傷つけたりもしない。だから、もう一度言う……俺と付き合ってほしい」
ただ、翔吾が本気で言ってくれているのはわかった。
「……翔吾は、立派な人になったと思うよ」
「そう思うなら、」
「でも、だからこそ、他にあなたに見合う女の人がいると思う」
そうだ。私のような恋愛出来ない女と付き合ってもガッカリするだけだと思う。翔吾の気持ちにこたえられる自信はなかった。
「はぁ? なんで俺が今更他の女と恋愛しなくちゃなんないわけ?」
「だって、私は恋が出来ないもの。そういうのが出来ないなってつくづく身を持って実感したの。だから、あなたと付き合うことは出来ない。誰か他の人を当たって」
翔吾は深々とため息をついた。呆れられたのだと思った。胸が痛い。けれど、
「俺はお前と恋したいわけじゃないし、ただこれからの人生をちぐさの近くで一緒に過ごしたいだけだ。お前がごちゃごちゃ考えすぎて身動き出来なくなるのは知ってるし。若者らしい恋愛が出来ないのはわかってるよ。全部理解して言ってるんだけど? それなら問題ないだろ?」
「問題ないことはないんじゃ……」
「ないよ。全くない。そもそも恋をしなきゃならないなんて決まりはないだろうが。俺はお前が愛情深いことをよく知ってる。愛があるばそれでいいじゃん」
「いや、でもね、そういう風に甘やかされるのはよくないと思う……みんなすごく頑張って婚活とかしてるわけでしょ。なのになんの努力もしない私が、」
でも、私が全部を言い終わらないうちに、翔吾は言葉を重ねてきた。
「だから、それが考えすぎなんだよ。いいの。お前が他の奴のことを考える必要はないの。自分の幸せをまず考えろ。出来ないなら、俺が考えてやる。な? お前は、そうやって人の気持ちばっかり考えすぎるの悪い癖だ。そのくせ、自分の気持ちはまったく考えないだろう。そういうの、やめろよ。そんな風にしてたって、誰も幸せにはならない。もう、いいんだよ。お前が罪悪感を感じることはない。大丈夫だから。絶対大丈夫。それに、お前が俺と付き合ってくれないと、俺はなんのためにこの十年頑張ってきたんだって話だろ? それこそ努力したのに報われないってことになる。そうだろう? お前に足りないものは、俺が補う。お前が俺にしてくれたみたいにな。だから俺と付き合え。というか、付き合うから。お前が駄々をこねても、俺はお前と付き合う。これは決定だからな」
なんて強引な男だと思った。わかったようなことを言うな。そう、思った。でも、どうしてだろう。
「泣くのは反則だろ」
「……ごめん、鬱陶しいよね」
「だからそれが違うって。好きな女の涙には弱いんだ。すげぇ可愛い」
「やめてよ。恥ずかしい」
「これぐらいで照れるなよ。まぁ少しずつ慣れていけばいいよ」
「なんなの、その軟派な感じ。ちっとも変ってないじゃない」
「言葉は出し惜しみしない性質なんだ。でも、誰にも言ったことが無い台詞がある」
そういいながら、私の目頭を拭ってくれた。優しい指先だった。男の人にそんな風に触れられたのは初めてで、緊張した。なんとも言えない気持ちになって私は顔をあげられず俯いた。
「愛してるよ」
空耳じゃないかと思うほどあっさりとした物言いだった。
「ずっと言いたかった。十年前からずっとだ」
こうして、私は翔吾と正式に付き合うことになった。
それは、いいのだけれど……友だちと恋人はやはり違うみたいだ。恋人としての翔吾は冷や汗が出るほど甘ったるかった。私が躊躇うのを楽しんでいるようにも見える。それでケンカになる。が、今のところ、まずまずうまくやっている。ただ、付き合いだして一ヶ月も経過していないのに、「結婚しよう」と言ってくるのは参っている。どれだけスピード婚なのだ。当然断り続けているが、毎日のように言われるのでノイローゼになりそうだった。
そして、今日、翔吾と付き合いだしたことを斎木と蛍にも報告した。驚くかと思ったけど、拍子抜けするほど反応が薄くて躊躇った。
「坂上、本気でそれ言ってるの? こういう展開になることをあたしは十年前からわかってたけど? つーか、よくまぁこれだけ時間が掛かったなと逆に不思議よ」
「わかってたなんて結果論でしょ?」
「これだよ……あたしだけじゃない、倉島……じゃなくて今は藤野だけど、藤野だってわかってたよね?」
「わざわざ訂正しなくても、倉島でもいいよ」蛍は斎木に微苦笑してから私に向き直って言った。「私もわかってたよ。体育館でちぐさが啖呵切って去っていく姿を、浅村くんが落雷に当たったみないな顔で惚けて見つめてたのを見たときからね。人が恋に落ちる瞬間なんて珍しいものを見せてもらいました」
――つまり、気づいていたなかったのは私だけ?
「っていうか、今だから白状するけど、実はあたしとくら…藤野と翔吾くんと三人で会ったりしてたんだよね」
「なにそれ?」
そんなの初耳だ。
「あんたが大学に入ってすぐに彼氏作ったでしょう。あの時の翔吾くんの落ち込みったらなかったわ。あんまりにも壮絶すぎて、あたしでさえ同情しちゃったわよ」
「あれは見ものだったね」
「だから、飲みに誘って励ましてあげたのよ。……ってかさ、これはもう時効だから言うけど、その時実は誘惑したんだよねぇ」
「え?」
「ぷ。何、その動揺ぶり。安心しなさい。何もなかったから。慰めてあげるっていっても、頑なに拒まれちゃったわよ。『そんなことをしたら、今度こそ本当にちぐさは俺を許さない。ちゃんと変わらないと』って。ちょっと感心しちゃった。ああ、本当に本気なんだなって」
「ちぐさが彼氏と別れたとき、私たちはもう告白しちゃいなさいって言ったのよね。次にまた彼氏が出来る前に、とっとと告白しなさいって。でも『十年しないと俺の罪は消えない』って言われてるからって。まぁ、ちぐさは頑固だからね。十年経たないうちに色気見せたら『やっぱり改心なんてしてない』ってダメな方に進む可能性はあった。だから必死で耐えてたよ。ちぐさのことちゃんと理解してるんだなって思った。あなたに言われた言葉を忠実に守るなんて涙ものだったよ。そんな人いないよ?」
「そうそう。なのに、坂上ときたら、社会人になったらなったで、新しい男つくるし」
「……あのときも大変だったよね。居酒屋で泣き出したときはつられて泣いたよ」
「そうそうそうそう。翔吾くんと倉島が泣いて異様なムードだった。二度とあの店には行けない」
「斎木だって結局泣いてたじゃない」
「……あんたたち泣き上戸だからね」
私はそのおぞましい光景を思い浮かべて、かろうじてそう呟いた。
「って、全部あんたのせいでしょうが! そうやってあんたのために十年かけて変わろうとしてる男がいるというのに……。どう考えてもこの十年に関してはあんたの方が悪女だからね」
「でもまぁ、うまくいってよかったよ」
良かったのだろうか。明かされる真実を聞きながら、私はなんだかクラクラしていた。自分がこんな王道まっしぐらな展開に落っこちるなんて夢にも思わなかったし。なんだかとても恥ずかしくなる。ただ、斎木も蛍も祝ってくれる。それは嬉しかったけど。
感慨なのか戸惑いなのか複雑な心境に浸っていると蛍が言った。
「それで、彼と付き合った決め手は何だったの?」
「あたしもそれが聞きたいわ。恋が出来ないと嘆いていたあんたの心を溶かした王子様の魅力は何?」
二人ともニヤニヤと悪い笑みを浮かべていた。祝いながらも、やはりこの青い鳥的オチを面白がっているみたいだ。なんだか悔しい。素直に答えるのは癪だ。だから、言ってやった。
「決まってるじゃない。顔よ。特に好きな人もいないところに、二枚目の男から告白されたら断る理由はないでしょう? 遊ばれてもいいから付き合いたいって思ったの」
「「よく言う」」
綺麗にそろって返ってきた言葉に、私は満足した。【完】
2010/3/25