04. Side陽芽―どうしてあんたは笑ってるんだ?
入江翁の米寿のパーティ。経済界や政界からの重鎮が集うものではなく、こじんまりとした――といっても一定規模はあるが――内輪のもので堅苦しさは幾分ましだった。だが賑やかな場は好まない。出来るなら早く去りたが……今回は朱乃を入江翁に会わせるので奥澤の当主が顔を出さないわけにはいかなかった。その当の本人、朱乃は朝から婚約者である史孝が迎えにきて連れて行かれた。こういう場合、俺が朱乃を伴って訪れるべきはずだ。どういうつもりか。
「いやぁ、実にいいお嬢さんだ。先代も愛娘の嫁ぐ姿をさぞや見たかったでしょうな」
第一線からしりぞいて数年が経つせいか、眼光の鋭さは消え、好々爺といった表現がよく似合う入江翁は、史孝とその傍に立つ朱乃に視線を向けている。
「先代は『最高の男を選ぶ』とよく口にしておりました。この婚儀にさぞや満足しているかと」
入江翁に返事をしながら、心の中に広がっていく靄。それが何なのか……朱乃が着ている服のせいかもしれない。青いドレス――今まで幾度か先代と共にこういったパーティや園遊会に出席する姿を見てきたが、あんな色のドレスは見たことがない。朱乃は白や淡いピンクを好む。おそらく史孝が買い与えたものだろう。それが、ひどく似合っていた。気に食わない。身体のラインに沿うような細身のデザインも。他の男どもの視線が集中している。自分の妻となる女が、他の男の欲望を刺激することを許す無神経さが腹立たしかった。俺は、先代の代わりに朱乃を保護する身だ。こんなこと許せなかった。
「本日はお招きいただきまして、ありがとうございます」
年配の男性が近寄って入江翁に挨拶をし始めたのでそっと傍を離れた。そのまま二人の元へと近寄って行く。挨拶をしなければならない。そんな使命感。いや、少し違う。自分でも説明しがたい衝動に襲われていた。
二人が並んでいる光景を今日初めて見た。事故で左足が不自由になった史孝を支えるようにして寄り添う二人。朱乃の眼差しは柔らかく、優しい。――その眼差しはずっと俺に向けられていたものだった。
先に気付いた史孝が一礼した。つられて朱乃の視線が俺を捕えるが慌てて逸らされる。
「楽しんでいらっしゃいますか?」
「ええ。お二人とも?」
「せっかくパーティですが、私のこの足では踊れませんから。朱乃さんには退屈をさせてしまって申し訳ないと言っていたところなんですよ」
史孝が穏やかに微笑みかけると、朱乃も応えるようにふわりと笑った。俺にはそんな顔をしたこともないくせに。それどころかまるで避けるように遠ざかる。
「ならば、私がお相手させていただいても?」
「――っ」
返事を待つことなく朱乃を抱きかかえて歩く。思いもよらない事態に逆らうことが出来ないのか大人しく従ってくれる。フロアの中央に立ち、音楽が流れ始めてようやく我に返ったのか、史孝に視線を向けようとするので、遮るように前に立った。
「ダンス中はパートナーに集中するのがマナーですよ。そんなに彼が気になりますか?」
「婚約者を思うのは当然ではないでしょうか?」
「好きで婚約したわけでもないのに?」
二人の姿はどうみても仲睦まじい。政略結婚とは思えない。幸せそうに微笑みあって……何故笑っているか理解できなかった。
「確かに、最初はそうでした。でも今は」
「違うと? 人の気持ちはそんなに簡単に変わるものですか」
俺を好きだと言ってから数ヶ月も経過しないうちに、婚約したからと言ってその男を好きになれるものか。随分軽薄だなという意味を込めて笑うと朱乃は綺麗に整った眉を顰めた。
「……どういう意味ですか?」
朱乃の身体をより力を込めて引き寄せる。甘い香りが鼻孔をくすぐる。
「立ち止まらないで。変に思われますよ」
囁くと、一瞬身体を震わせたが諦めたのか、身を任せるように力を抜いた。そのまま会話こそなかったが踊りつづけた。
奥澤のトップに立つのならダンスの一つも踊れなくてどうする――先代に言われて無理やり覚えさせられた。だが一度も人前で踊ったことはない。踊ることなどないと思っていたのに、こうして朱乃を抱いていると踊りも悪くないなと思う。きっと、朱乃の体が思いのほか腕の中に馴染み居心地がよかったからだろう。このままずっとこうしていたいような不思議な気分に満たされた。しかし、一曲終わるとすぐさま逃げるように去っていく。残された空虚感にただ戸惑った。
2009/9/8
2010/2/10 加筆修正