君なくて、【本編】 > 01 / 02 / 03 / 04 / 05 / 06 / 07 / 08 > novel index
06. Side陽芽―この凶器めいた感情、触れるための口実を 

 一人分の夕食しか用意されていないテーブル。今日は早く帰ると告げてあったはずだ。怪訝に思っていると察しのいい男――時見が告げた。
「朱乃様は本日は史孝様とお出かけです」
「何も聞いていないぞ」
 史孝と出かけるときは事前に報告をするように命じていた。もし何か不都合が生じて破談になっては困る。二人の行動は把握しておきたい。その旨は朱乃も重々承知のはずだ。命に従い事前報告と事後報告は必ずしにきていた。
「少し前に突然お迎えにいらっしゃいまして……せっかくお越しいただいたのにお返しするのも申し訳ないと」
 渋々出かけた。そんなニュアンスではあったが、どうだか。史孝の話をする朱乃はいつだって楽しげだった。俺と食事をするよりも、あの男と一緒にいることを望んでいるのではないか。そもそも史孝が勝手にやってきたのではなく、朱乃が頼んだのかもしれない。別にそれならそれで素直に報告すればいいものを、何故隠すのか。陰でこそこそされるのは苛立つ。俺が二人の関係を気にかけて取り計らっていることを知っているだろうに、それを無視する行動が腹立たしい。ここのところずっとだ。史孝と会っていると聞くだけで苛立ちが止まらない。二人がうまくいっているなら願ったり叶ったりのはずが、不愉快でたまらなかった。
「そうか……膳はいい」
 この苛立ちは疲れからくるものだろう。そう判断して自室に晩酌の用意を運ばせることにした。
 一人になってソファに横になる。コメカミを押さえて軽く揉む。頭痛がする。だが不快さは頭ではなく胸のあたりから押し寄せてきている。まだニ、三口しか飲んでいないが酔ったのか。そうかもしれない。寝不足と空腹のところへ酒など流し込めば身体によくないことはわかりきっている。だが、飲まずにはいられなかったのだ。
 時計に目をやる。午後十時を過ぎていた。
 今、朱乃はあの男といる。もしかして今日は帰ってこないつもりか。いずれは結婚するといえどまだ婚約中……いや正式な婚約をしたわけではない。婚約予定の段階だ。それなのに泊まりで出かけるなど、そんなこと許されるはずがない。朱乃はその辺の女とは違う。奥澤の一人娘なのだ。そんな不埒なことが許されるわけない。史孝はその辺の常識を兼ねそろえた男だと思っていが、所詮普通の男だったのか。己の欲望を優先させるのか。冗談じゃない。今からでも連絡して連れ戻すべきか。それとも我慢するべきか。逡巡する。答えがでるわけもなく、俺は更に酒を流しこんだ。 

――っ。
 物音に目を覚ます。いつの間にかうたた寝をしてしまったらしい。屋敷とはいえ年若い自分が奥澤を継いだことを快く思っていない連中もいる。寝首をかかれる可能性もゼロじゃない。無防備すぎるなと自嘲する。
 頭が重い。状況を確認する。
 帰宅して自室で晩酌をしていたのだ。不愉快な出来事があった気がする。あまりにも深い苛立ちを感じたので、意識を手放した。ダメだ、思いだそうとすると感情が込み上げてきてやめろと警告する。気付かない方がいいのだと懸命な何かが訴えてくる。何に気付かない方がいいのか。とにかく混乱しているのは確かだ。酒に酔うことなどほとんどないのに、頭痛がやまない。水でも飲めば落ち着くか。ついでに夜風にでも当たろう。
 廊下に出る。と、朱乃と出くわした。確か史孝と出掛けていたはずだ。帰っていたのか。
「申し訳ありません。起こしてしまいましたか?」
 先ほどの音は朱乃だったらしい。風呂上りらしく、髪がまだ濡れていて、白い肌はうっすらと上気していた。清楚な石鹸の香りがたまらなく甘美で、そのまま通り過ぎようとする腕を思わず捕えた。ビクリと体が震えるのがわかった。恐る恐るこちらを見る眼差し。最近では、あからさまに視界から外されることはなくなったものの、こうして対峙するのは久しぶりだ。
「入江氏と会っていたそうだな。随分と仲睦まじくて何よりだ」
 言葉とは逆に声が険しい。自分でもわかる。ただ、何に苛立っているのかがわからない。自分ではないみたいだ。
「……酔っていらっしゃるのですか?」
 顰め面。俺にはいつもこの顔。昔はもっと――そう、もっと優しげで、柔らかい表情を向けてくれていた。それを疎ましくさえ思って無視し続けていたが。
「酔っているさ……」
 そのままゆっくりと朱乃に顔を寄せる。彼女はじっと俺を見つめたまま動かなかった。ただ驚いたように目が見開かれた。しっとりとした唇の感触。一度触れると止まらない。
――ああ、そうか。
 俺はずっとこうしたかったのか。
 わざと見ないふりをしていたのは、意識していたのだ。彼女を。俺を見る彼女を。どうしていいかわからなかったから。俺は朱乃を、
 強く胸を突き放されて我に返る。ひどく狼狽した朱乃の顔。泣いているのか。
「お戯れが過ぎます。どうぞ、酔いをおさましください」
 立ち去る朱乃の後ろ姿を茫然と見つめた。




2009/9/14
2010/2/20 加筆修正

  

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