君なくて、【本編】 > 01 / 02 / 03 / 04 / 05 / 06 / 07 / 08 > novel index
08. Side陽芽―馬鹿な真似だと思うだろう? 俺は本気だ 

――とにかく疲れた。
 あの史孝という男。人のよさそうな顔をしているが食わせ者だ。それでも話を飲んでくれたのだ、感謝すべきなのかもしれない。
 朝起きて真っ先に向かった入江家からの帰り道、とりあえず目的を果たした満足感と、これからさらにもう一つ大事な話を迎える緊張とが混濁した奇妙な興奮状態だった。
 屋敷に戻ると、時見の姿があった。
「朱乃さんは?」
「いらっしゃいます。呼んでまいりましょうか?」
「いや……私が向かう」
 時見は驚いたが、すぐにいつもの顔に戻り下がった。そのまま朱乃の元へ向かう。
「朱乃さん、入りますよ」
 返事を待たずに扉を開けると、ベッドで横になっていたらしい。慌てて降り立ち指をついて迎え入れてくれた。
「失礼いたしました。お出迎えもせずに」
「いや。それより、あなたに大事な話がある」
「はい。時見から、伺っております。それでどのような?」
 顔を下げたままだ。心なしか声が震えている気がする。昨日のことを気に病んでいるのか。
――嫌がられている? 
 自分のしてきたことを振り返っても当然だ。だとしても、後には引けない。気持ちに気付いた以上は手放す気はなかった。勝手と言われてもかまわない。
「入江さんとの婚儀の件です――あの話は反故にした」
 告げるとはじかれたように顔をあげた。その目は腫れていた。泣いていたらしい。柄にもなく心臓が速まっていく。目が合うと、逸らされた。
「どうしてですか?」
「あなたには別の縁談を用意したからだ」
「別の……」
 声が震えていく。耐え忍ぶように。それでも堪え切れない涙が、彼女の頬を濡らした。
「何故泣く? そもそも好きで結ばれたわけではないだろう。それともすっかりほだされたか?」
 自然と声が剣呑になっていく。朱乃の気持ちは完全に史孝に傾いているのか。泣くほど辛いのか。そう思うと腹の底から感情が冷えていく。不愉快だ。それが俺自身が仕向けたことだったにせよ、あんな男のために泣く姿など見たくない。
「これは決定事項だ。あなたはもう入江の婚約者ではない。正式な婚約前だったし、さして問題はないでしょう」
「……何故、彼ではダメなんですか? 別の縁談なんて……それはそんなに、奥澤に……あなたにとって利益を産むものなんですか?」
 奥澤にとってはどうかは知らないが、俺にとっては利益を産む。一度触れただけの唇が忘れられない。朱乃のすべてがほしかった。手に入るならなんでもするし、絶対に手に入れる。昨日自覚したばかりの感情だというのに、滑稽なほど溢れてくる独占欲。自分にそんな一面があるなど信じられなかったが、悪い気はしなかった。
「ええ。比べ物にならないくらい」
 答えると、彼女は一瞬顔を強張らせた。やがて何かを諦めたように頼りなく笑った。
「そうですか。わかりました……それで私はどなたの元へ嫁ぐのですか?」
 まるで投げやりな物言いだった。史孝以外の人間なら誰でも一緒。構わない。そういう風にも見えて、不愉快さが増した。俺のことを見ようともしない態度にも。
「……そんなに入江の元へ嫁ぎたいのか」
 朱乃の顔色が一変した。
「あなたが、私にそれを望んだのではないですか!」
 こんなに感情をあらわにする姿を見るのは初めてだった。
「史孝さんとの婚儀が整えば、少しでも陽芽様のお役に立つと思ったから……だから私は、」
 激昂はすぐにおさまり、今度は頼りなく言葉を紡ぐ。告げられた内容に、心臓がとまりそうだった。
 確かに、俺は史孝との婚儀を薦めた。だが、それは朱乃にもメリットがあると思った。不自由のない暮らしが確約されるのだ。だから朱乃は婚儀を引き受けたのだと思っていた。でもそうじゃなく……俺が望んでいたからなのか。純粋に俺のためだけに? ならば、史孝のことは好きではないのか。なら、今悲しんで涙をこぼしている理由は――。
「なのに簡単に覆す……あなたにとって私は奥澤繁栄のための道具なのでしょうけど、私にだって感情があるんです……」
――ああ、そうか。
 俺が朱乃を顧みないと思い、悲しんだのだ。見当違いの解釈をしていたことを知る。根本的に俺は朱乃を見誤っていた。俺が愚かな過ちに気付いて茫然となっている間、朱乃もまた我に返ったようだった。自分が言った内容に恥じたのか、顔を赤らめ、うろたえていた。そして、
「……取り乱して申し訳ありません。疲れたので少し一人にさせてもらえますか? 落ち着いたら話をお聞きしますから……」
 朱乃は背をむけてしまった。
 落ち着いたら話を聞く。別の男のところへ嫁げという話だ。まだ俺のためにそれをしてくれるというのか――その時、生まれて初めて女を可愛いと思った。いじらしいとはこういうことかと。傷つき悲しんでいるのは俺の不甲斐なさのせいだというのに、涙する朱乃がたまらなく可愛くてどうしようもなく抱きしめてやりたいと思う。
「あなたを道具にする気はない」
 誤解を解かなければならない。
「だったら、どうして別の縁談なんて……――っ!」
 後ろから抱き締めると、華奢な体は震えていた。
「新しい縁談相手は、俺だ」
 朱乃の体が強張るのがわかった。
「なんですかそれは……」
 こめかみと、瞼と、頬と、涙のあとを伝うように、丁寧に口づけをする。唇を離すと信じられないと俺を見つめ返す視線があった。まだ不安に揺れている。
「すまなかった……俺が愚鈍なせいで、辛い思いをさせた。でも、お前をどこにもいかせない。誰にも渡さない」
 朱乃は俺を見つめた。その目に拒絶の色は見えない。それは自惚れではないだろう。触れたいと思う。だが、このまま見つめ合っていた気もする。熱っぽい視線をからませて、仕掛けるタイミングを計る。鼻先とかすかに唇が触れる程度まで近づいては離れ、吐息をこぼす。
 言葉を発したのは朱乃だった。
「……その縁談を、私が断ると言ったら?」
 それはささやかな意趣返しなのか。
「奥澤のためになるなら、お前は拒まない」
 俺は遠慮なく唇を塞いだ。言葉とは裏腹に応えてくれる。そして、もっと口づけた。吐息を奪いつくすように深く長く――。
 



2009/9/15

2009/12/22 改変
2010/2/10 加筆修正

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