07. Side朱乃―慌てて離した手
――あれは、何?
口づけられた。どう考えても。でも何故? 疑問符がぐるぐると頭の中をいったりきたりする。けど、
「酔っぱらっていたから、よね」
深い意味があるはずない。酔っぱらっていたところに、たまたま私が現れた。酒癖がよくないのかもしれない。キス魔というのもいる。陽芽がそうであるなど想像しづらいけれど、それ以外に思い当たる理由はない。
それよりも。
まだ感触の残る唇にそっと手を当てる。避けようと思えば避けられたと思う。でも、陽芽の顔が近付いてきて触れた唇を受け入れていた。そのまま縋りついてしまいそうな自分をかろうじて突き放したのだ。
諦めた想いがまた心の奥でくすぶり始める。
ベッドに横になって枕に顔を押さえつけると涙が溢れてきた。
陽芽にとっては気まぐれなのだろう。だけど私の心は揺れている。悲しかった。期待しそうな自分が。そんなことあるはずがない。ずっと相手にされなかったのだ。そんなこと誰よりもよく知っている。それなのまだ夢を見てしまいそうになる。バカだ。本当に。私は結婚するのだ。他の人と。陽芽も望んでいる。それで何もかもうまくいく。それが、
――どうして、こんな試すようなことが起きるのだろう?
戯れの口づけなどいらない。あの人の温もりなど知りたくない。ただ、偶像のようになって、恋なのか憧れなのかわからなくなっていけばいいと思っていた。
私はこの夜を後生大事にして、思い出すのかもしれない。
ゾッとした。彼にとっては取るに足らないこと。酔っぱらっていて覚えてさえいないかもしれない。でも、私はずっとこの日のことを夢に見る。そんな自分が安易に想像出来て。
――私はまだあの人を、
もう二度と口にしてはいけないと遠のけていた言葉が浮き上がってくる。
触れられた唇を押さえながら、声にならない嗚咽を漏らした。
翌朝、目覚めて鏡を見ると、目が腫れていた。
泣いたまま、下をむいて眠ったせいでむくみがひどい。こんな顔、誰にも、とくに彼には見せられない。幸いなことに陽芽はすでに出かけたらしく、ほっとした。
「朱乃様、本日のご予定は?」
遅い朝食をとっていると、時見が尋ねてきた。
「何もないけれど……」
「そうですか。それはよかった。陽芽様がお戻りになったら大事な話があるので、家にいるようにと言付かっております」
「……陽芽様はどちらへ?」
「史孝様のところへおいでと伺っております」
大事な話。史孝のところへ行った帰りに。それは……。
胸騒ぎがした。よくないことが起きた? 昨日、あんなことがあったから余計に不安が広がる。何をしに向かったのか。戻って大事な話があると前置きするなど余程のことに違いない。話とは何なのか。わからない。ただ、私にできることは、彼の帰りを待つことだけだった。
2009/9/14
2010/2/20