私の記憶の鮮明なはじまりは四歳の春だ。それ以前の記憶はあまりない。おぼろけに思い出せるのは、父の怒鳴り声と、母の疲れた顔ぐらい。二人は不仲で、私が三歳のとき離婚してしまった。以来、父とは会っていない。そういう約束で離婚したのか、父が会いにこないだけなのかは知らない。
離婚してからすぐは大変だったと聞く。結婚を反対され駆け落ち同然で家を出てきたので、気の強い母は実家に帰る道を選ばなかった。だが、資格もなく、ツテもない上に、まだ幼い私を連れて、簡単に仕事が見つかるはずがない。その日食べていくだけでもやっとだった。それでもどうにか必死に働き、ある日、幸運が訪れた。騎堂の家で住み込みの家政婦として雇ってもらえたのだ。
大きな敷地内には従業員用の家があり、私たちはそこで新しい生活をはじめた。今まで住んでいたボロボロのアパートとは比べ物にならない。こんなところに住まわせてもらえるなんて、騎堂さんはさぞや素晴らしい人なのだろうと思った。ちゃんとお礼を言わなければと鼻息を荒くしていたら、屋敷へ挨拶に行くことになった。そこで、彼に出逢ったのだ――騎堂史宣。彼は痩せっぽちな私に見たこともない美しい笑みで言った。
「はじめまして。仲良くしようね」
愛されて育った人。屈託のない優しげな眼差し。神様はきっとこんな人を創りたかったに違いない。彼は私の真っ黒な人生にはじめて華やかさをもたらした。後にも先にもこんな鮮烈な出会いはない。自分とはあまりにも違う。こんな人も存在するのか。差し出された手を、私はとれなかった。気後れしてしまったのだ。
騎堂の家の方針で、史宣は私立ではなく私と一緒の公立の小学校へ通うことになった。史宣は入学してすぐに浮き目立ちした。出る杭は打たれる。しかし嫉妬や羨望の眼差しに怯むことなく周囲とうまく折り合いをつけた。一学期の終わりにはクラスの人気者になっていた。私は緊張を解くことができず、仲良くなることはなかったけど。
中学は別々だった。彼は中高一貫教育の私学へ入学してしまったから。その三年間はほとんど顔を会わせてはいない。私が屋敷に行くこともなかったし、まして彼が従業員用の家にくることなどありえなかったし。
そして再び高校で同じになった。自分で言うのもなんだが、私は勉強だけはできた。それを知った騎堂の奥様――史宣の母親――がせっかく実力があるならもったいないと、学費を無担保無利子で貸してくださることになり、進学率のいい史宣の通う学校を受験した。高校からの編入枠はかなり厳しかったが無事合格でき、ご恩に報いることができてほっと胸を撫でおろした。何より、史宣と同じ学校に通えることが嬉しかった。
久々に見る史宣は雰囲気が変わっていた。圧倒的なカリスマ性は増していたが、屈託のない笑みはなく、代わりに冷たさを感じた。子どもの頃のような無邪気さがなくなるのは当然なのかもしれない。将来を約束されているが、背負う圧力も半端ではない。気軽な高校生ではない。それが彼に憂いをもたらせているのだと思った。
でも私は、彼に惹かれた。
幼い頃感じた想いは、彼に会うと甦ってきた。いや、それ以上に強まっていた。それが恋心であると気づいたのは入学して間もなくだ。彼が学年一の美人と付き合っていると知ったとき。味わったことない胸の痛みを感じ、私は彼を好きなのだと気づいた。きっと、初めて会った日から私は彼が好きだったのだ。今更気づいたところで、どうすることもできないけど。そもそも住む世界が違うし。廊下ですれ違っても目を合わせることさえない。遠い人だ。自覚した想いを持て余し、見つめるだけの日々。それでも、全く会えなかった中学時代を思えば幸せだった。おそらく大学は別々になるだろう。そうすれば会うこともなくなる。残された高校時代、彼を好きでいようと思った。そしてやがていい思い出になっていくだろう、と。
だが、事態は一変する。
騎堂史宣が事故に遭った。
知らせを聞いても私は驚かなかった。事故といっても命に別状はないと考えたのだ。だって彼は特別だったから。全てに恵まれ、神の寵愛を受けている男。それが史宣だ。だから「意識が戻る可能性は極めて低い」とわかったとき理解できなかった。信じられずに彼が入院している病室へいって、鼻に管を通され呼吸もままならない姿を見てようやく現実なのだと認めた。
――神様。
祈った。毎日毎日祈った。それぐらいしか出来ることがない。神様神様神様……彼が目を覚ましてくれるなら私の運の全てを使い果たしてもいい。だからどうか――。
「その願い叶えてさしあげましょうか?」
満月の夜だった。窓際でぼんやりと空を見上げていた。すると、突風が吹いてたまらず目を閉じた。次の瞬間、聞きなれない声がして、目を開けると見たこともないほど美しい男が立っていた。彼の背には真っ白い羽があった。
「私、天使のドーセと申します。石森つばきさん、あなたの願い、叶えてさしあげましょう」
天使だと自ら名乗るなんてどうかしている……と思うけれど目の前に立つ姿は疑いようがないほど本物だった。
「驚かせてすみません」
言葉を失って硬直する私に、ドーセは羽を揺らした。
「それで、ええーっと、あなたの望み、私なら叶えることができますが、どうします?」
そうだ。ドーセは私の願いを叶えてくれると言った。怖気づいている場合じゃない。
「お願いします、どうか史宣に元通りの生活を……」
「ええ、わかりました。……ただし、条件があります」
「私に出来ることならどんなことでもします」
――私の命と引き換えてでも
ドーセはクスクスと笑う。見惚れるほど美しい笑みだ。
「ふふ。大丈夫ですよ。命をとったり、貴方の運を使ったりなんてことはしません。私は悪魔ではなく天使ですからね」
「じゃあ、何をすればいいんですか?」
「あなたの気持ちを彼に告げないで欲しい。つまりあなたから彼に好きだと告白しないこと。それが条件です。もちろん、心で想うことまでやめろなんていいません。想うだけならご自由になさってくださってかまいませんよ」
「……そんなことでいいんですか?」
約束をしなくても、最初から告白する気なんてなかった。一生涯告げる気などない。まったく見込みのない恋心だ。条件を飲んだところで私になんのデメリットもない。何も変わらない。本当にその条件でいいのだろうか?
「私にとってはとても魅力的な条件ですよ。あなたの命を頂くよりもずっと」
私の心を見透かしているのか。美しい笑みを崩さずにドーセは言った。そうなのだろうか? いくら考えても私には「これまでどおり」でしかない。この条件を飲んでも変わりはしない。
「本当にそんな条件でいいんですか?」
「充分です」
私が感じているより、この条件はずっと重いものなのか。考えても仕方がない。たとえそうであっても、史宣が元通り元気な姿に戻るなら、私はそれで充分だ。
「条件を飲みます」
それから三日後、約束通り、史宣は目を覚ました。
2010/1/5
2010/2/21 加筆修正