違うってなんだよ――。
つばきが飛び出していった入り口を睨みつけながら俺は動けずにいた。あいつの言動が理解できない。一言好きだといえば、付き合ってやるといったのに、すっとぼけやがった。それでついカッときて厳しいことを言ってしまった。
陸上部が練習を終えたのか、階下に備え付けられた水飲み場に集まってきているらしい。ガヤガヤと賑やかな笑い声が聞こえる。何を笑ってやがるんだと窓から叫びたい衝動にかられたがグッとこらえた。まず、気持ちを整理しなくてはならない。動揺が大きすぎた。
つばきから図書室に呼び出されたとき、まさかこんな結末になるなんて、一体誰が予想できただろう?
まったく真逆の展開だ。一体俺はどこで読み間違えた? つばきは俺を好きじゃないのか? いや、そんなはずはない。でも、だったら何故? 考えても答えなどでない。答えてくれるとしたら、つばき以外いない。でも、本人は俺の前から逃げていった。そして、俺はそれを追いかけなかった。いや、追いかけることが出来なかったのだ。
あの時、俺の体を支配していたのは恐怖だった。
無理やり引き止めて問い詰めて、もしあいつが俺を好きじゃないと言ったら――? そう思うと体が硬直した。そんなことない。あいつは俺を好きだと思うのに、何故か強固になれなかった。恐かった。少しでも、拒否される可能性があることが。何故、恐いのか。自分でもよくわからない。どうかしている。何か変だ。
「何してんだろ、俺は……」
「全くですね」
思わず漏れてしまったつぶやきに、返事があった。いつからそこにいたのか、俺を生き返らせてくれた天使が立っていた。
「……何しに来たんだ」
「お言葉ですねぇ。ご機嫌伺いですよ。アフターケアとでもいいましょうか。そしたら面白い現場にでくわしちゃいまして、つい」
「見てたのか? 悪趣味な奴」
「私にあたらないで下さいよ」
ドーセは妙に楽しげだった。それが余計に癪に障ったが相手にするだけの気力はない。無視することに決めたら物足りなさげに羽を揺らした。そして、自分から切り出してきた。
「それにしても、あなたの口から傲慢って言葉が出るとは…あなたもいい勝負だと思いますが」
「傲慢? 俺が?」
「自覚なしですか? あなた、自分で言った内容がどういう意味かわかってます? 『お前が俺を好きなら付き合ってやる』……ってことは、彼女があなたを好きじゃなければ付き合わないってことですよ?」
「そうだ。でも、あいつは俺のこと好きだろ? お前だって知ってるじゃないか。意識がない間、毎日俺の見舞いにきてた。好きでもなきゃこないだろ」
「……確かにそうですね。あの時は、あなたのこと、好きだったのでしょう。ですが、人の気持ちは変わりますよ? あなたと過ごしたこの数ヶ月で気持ちが冷めちゃったのかも。あの場で逃げだしたということはそういうことなのでは? 彼女はあなたを好きじゃないと判断するべきです。つまり、あなたとは付き合わない。と」
「そんなこと……」
「ない、と言いきれますか?」
「……」
俺は嫌われたのだろうか。何か、嫌われるようなことをしたか?……わからない。というか、そんなこと、今言われるまで考えたことなかった。美由が俺に言った台詞が脳裏をかすめる。――ずっと自分は好かれて当たり前だと思っていた――。つばきが俺を好きでいるのは当然だと思っていた。それを受け入れるかいれないかを俺が選ぶのだと。その前提がなくなってしまうことなど想像したことがない。あいつが俺を嫌うことがあるなんて、一度も思ったことがなかった。でも、別に、あいつが俺を好きでいなくちゃならない理由なんてない。誰かに強制されているわけではないのだ。あくまでも自由意志。だから嫌われる可能性だってある。そんな当然のことを考えなかった……。
――俺は知らず知らずのうちにあいつの地雷を踏んでいたのか?
あいつが何を言われて傷つくか、何をされるのが嫌かなんて知らない。気に留めたことがない。俺はあいつにいつだって好き勝手自分の言いたいことをいって、好きなように振舞った。それでもつばきは嫌な顔を見せなかった。でも内心ではうんざりしていたのだろうか? だからあいつは俺に愛想をつかした? 俺は嫌われてしまったのか?
「でもよかったじゃないですか」
「何がだ?」
「だって、別に、あなたが彼女を好きだったわけじゃないんでしょう? 彼女を好きで付き合いたかったなら痛手かもしれませんが、彼女があなたを好きだから、付き合ってやるつもりだった。なら傷つく理由はありません。ボランティアだったんだから。あなたが彼女に告げたことは、そういうことです。彼女にとってもよかったですよ。仮に、彼女があなたに付き合ってもらったとしても、幸せにはなれなかったでしょうし。彼女は、彼女のことを好きな男と結ばれて幸せになるべきです」
――っ。
あっと声にならない悲鳴が上がる。
ドーセが俺を傲慢だといった意味ををようやく理解した。
そして、焦った。脈が早まっていくのが自分でもわかる。理解してしまえば、堰を切ったように流れ込んでくる真実。何故、気付かなかったのか。何故、わからなかったのか。それを責め立てるように、俺の体を駆け巡る。
どうして俺は、つばきが俺を好きでいることを当然のものと考えたのか。
ずっとそうだったから、これからも変わらないなんて信じてしまえたのか。
――それは俺が、そうであってほしいと望んでいたからだ。
何があっても好きでいて欲しかった。だから好きでいてくれると信じたのだ。あいつに嫌われることを無意識に排除した。つまり、それは……。
「私が言いたかったこと、おわかりいただけたようで。相変わらず飲み込みが早くて助かりますよ。しかし、あなたは恵まれた人ですが、自分の気持ちには驚くほど鈍感な人ですね。もってる素材はけして悪いものじゃないのに、なんか歪んじゃったみたいですね。でも、これを機会に治してみてはどうですか? 人間は失敗から学べる生き物ですから」
ニヤニヤと人の悪そうな笑みのドーセが腹立たしい。
「……お前、嫌な奴だな。天使のくせに」
「天使だから、こんなに親切なんだと思いますけど? ……それでどうされるんですか?」
「つばきに会って、俺の気持ちを伝えたい」
「ふふ、いい心がけですね。でしたら、彼女の元までお連れしてさしあげますよ。アフターケア万全でしょう? まぁ、うまくいくかどうかはわかりませんが、頑張ってください」
「本当に口の悪い天使だな……でも感謝してるよ」
俺の言葉にドーセは一瞬だけ戸惑ったように見えた。だが、次の瞬間にはにっこりと完璧な笑みを返してくれた。
2010/1/9
2010/2/21 加筆修正