君じゃなくてもよかった。
桜が散っていく。
夜。丘の上の公園。
静けさの中で、たった一人。
涙は流れなかった。
ただ、胸が痛くて。
痛くて、痛くて。
――じゃあね、咲哉。
笑顔で言った。
会心の笑みを向けた。
それが別れの挨拶と、彼は気付きもしなかった。
茂垣建設の社長、茂垣利一。
彼は熱烈な恋をした。だが、立身出世のためにその女と別れ茂垣建設の社長令嬢と結婚。
月日が流れたある日。
かつて愛した女が他界したと知る。交通事故。唯一助かったのは彼女の一人息子――山代咲哉。当時高校生だった。利一は何を思ったか、天涯孤独になった咲哉を家に引き取った。
更に月日は流れた。
咲哉は大学を卒業すると利一の秘書として茂垣建設に就職した。一人娘である茂垣瑠璃が婿養子をもらったとき、その右腕となるように。
彼は瑠璃を愛していたから苦しんでいた。いつか、瑠璃が別の男と結婚する日、自分はどうなるだろうか。壊れそうな日々を紛らわせるために、人肌を求めた。
相手は誰でもよかった。
――なら、私でもいい。
瑠璃の送り迎えにくる山代咲哉を、私は愛した。
近寄って、関係を持つことは簡単だった。瑠璃には彼氏が出来たばかりで、咲哉はそのことを悲しんでいたから。
迎えにきてもデートの日は追い返される。彼は「社長に頼まれておりますので、困ります」と感情を殺した声で忠告するが、瑠璃は聞かない。そればかりか、瑠璃のために工作させられる。
そんな夜、彼は女を求める。
だから私は彼を待ち伏せして声をかけた。あっさりと誘いに乗ってきた。
それからも私は、瑠璃が彼氏とデートする日、彼に会いに行く。苦しみで一杯の彼は、何故私が都合よく現れるかなど考えない。ただ、持って行き場のない熱を私に吐き出した。
むなしくならないかって?
なるに決まっている。
でも私は引き返さなかった。傍にいて、邪険に扱われ、ああ、この人に愛されることはないのだと、この身を持って実感する。そうでなければ、永遠に諦めきれないと思った。自虐的でも、自暴自棄でも、それが楽になる唯一の方法のように思えた。
だけど、実際そんなことは嘘で。
私を見ない彼を。
少しも愛してくれない彼を。
それでも私は愛し続け、もうどうしたって愛していて、これ以上、傍にいても、この人を嫌いになることなどないとわかった。
近くにいても、離れていても、きっとこの胸は痛むだろう。
この人が、私を愛してくれない限り、苦しむだろう。
だったらどうする?
同じ辛さなら、傍にいよう。
そう、決めた、矢先だった。
彼の部屋で、いつものように、彼の悲しみに付き合っていると、携帯が鳴った。
瑠璃から。彼氏とケンカをしたらしく、迎えに来てほしいと、勝手な電話だ。当然、彼は飛んで行こうとした。
その時、私は何を思ったか、それを止めた。
――行かないで。
全く馬鹿な一言だ。
彼が瑠璃より私を選ぶはずがない。それでも私はかすかに自惚れていた。関係した直後だったし、少しぐらい愛着があったりするかもと。そんな幻想を。
だけど当然、現実は違う。
彼は、言葉でこそ言わなかったが、眉を顰めて、あからさまに邪魔にした。鬱陶しそうだった。
――ああ、
私は慌てて否定した。冗談よ。ごめんね。謝って、急いで服を身に纏い、彼と一緒に家を出た。
彼は別にいいと。ゆっくり着替えて、出ていけばいい。鍵を閉めたらポストにいれておいてくれたらいいからと。テーブルに置いて一人で出て行こうとしたけれど、私は連れだって部屋を出た。
そしてマンションのエントランスで別れたのだ。
これまで朝が明ける頃、私は黙って彼の部屋を去っていた。だから一度も口にしたことがなかった台詞。
――じゃあね、咲哉。
とびっきりの笑顔で。
奮い立たせるような笑顔で。
その言葉を口にした。
彼は気付かなかった。
それが”今日の”挨拶ではないこと。
それよりも、愛しい女からの呼び出しで頭が一杯だ。
私の些細な異変になど気付いてくれるはずがない。
まったく、馬鹿なことをしていた。
けれど。
それでも私は後悔していない。
だから、涙は流さない。
だって私は、
――私じゃなくてもよかたったという、あなたを愛してしまったのだ。
もう、どうしようもなくて。
ただ、胸が痛い。
痛くて、痛くて。
公園の中、一人ぽっちで立ちつくす。
少し寒い夜。
桜が潔く散っている。
2011/4/24