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君じゃなくてもよかった。

 結局、私はまた、彼の申し出にうなずいていた。
 傍にいると、自分のことも、彼のことも嫌悪する。辛い。悲しい。そんな思いをしないために決めた別れだったのに、何をしているのだろうか。と、思う。だけど私はあの時にうなずいてしまった。
 間違った選択だったのではないか。
 早まった選択だったのではないか。
 彼と付き合うことになった時も、その場で返事をしたことを悔いたのに、また同じことをしている。全然成長がないじゃないかと自分をなじってみたり、恥じろと糾弾してみたり、責め立ててみる。だいたいこういう場合、どっぷりと途方に暮れて絶望するのに、でも今回、私は平然としていた。そのことに驚いた。だけど、

 この人が、好きだ。

 あの瞬間、嫌悪感や、苛立ちや、怒りや、やるせなさ、まがまがとした感情の一切を押しのけてガンっと一番前に出てきた感情がそれだった。彼の言葉に対して、不信感や、猜疑心や、馬鹿する気持ちではなく、私もこの人が好きだと、それが引き出された。
 そして、思ったのだ。
 私が一番最後に行きつくのは、この気持ちではないか、と。
 時の流れの中で、激しい感情が静まり、最後に残る穏やかなもの。それはこの人を好きというものではないか。憎しみは強いものだから、飲み込まれてしまいそうだけれど。怒りは辛いものだから逃げ出してしまいそうだけれど。ここで、背を向けて、楽になる道を選んでも、想いを残すのではないか。本当に大事にしたい気持ちを見誤ってはいけないのではないか。

 私は、この人が、好きだ。

 起きた出来事によって、張り付いてしまったものを全部とっぱらったとき、私はそこに行く着くのではないか。そして、そうなったとき、私は彼に別れを告げたことを後悔するのではないか。

――もう逃げるのは嫌だ。

 私は一度、彼から逃げた。辛くなって逃げ出して、その後、結局一年、自分の気持ちをもてあまし続けた。きっと、今、彼と別れたら、あの時と同じになるだろう。それはもう嫌だ。だから、この人から逃げずに、この人の傍で、私が最後に行きつく感情を見届けてやろうと思った。それは辛く苦しい道だけれど。そうしようと決めた。だからあの時、私はうなずく以外の選択肢を持たなかったのだ。そう、不思議と納得できた。

 ただ、予想はしていたけれど、その選択は相当に茨の道だった。

 彼を好きだと感じた想いは、時間が経過すると、またどこかへ行ってしまった。憎々しい感情が再び私を支配する。彼に対して、私は相変わらず酷いことを言ったりする。もしかして、「好き」という気持ちは錯覚だったのではないかと疑うことさえあった。そうならば、時間の無駄だ。早く別れてしまった方がいい、と早急に結論を出したがる自分が現れる。私の心は常に揺れ動いていた。
 それを留めさせたのは彼の態度だ。
 あれから、彼の態度は明らかに変化した。
 それまで、私が発する無慈悲な言葉に黙って傷ついているだけだった。詫びるような、懺悔するような、悲しい顔で沈黙していた。その顔を見ると、こんなことをしていれば、いずれこの人は私の元を離れるだろうと思った。そして、離れて行かれると思うと今度は苦しくなった。離れてほしくないと願っている自分が出てきて、そのことに傷ついていた。それならこんなこと言うべきではないと自分に言い聞かせても、やめられないことに焦燥した。
 でも、彼は黙っていることをやめた。

「嫌味を言うな」

 と言い返してくる。
 そしたら私は益々怒りが炸裂して――となるかと思ったが、意外にも私はそれにほっとした。この人は、私との未来を本当に考えているのだ。嫌になったら離れて行こう。我慢できなくなったら諦めよう。としているわけではなく、未来を見ているから、非難されると辛い、と。いつまでも過去にこだわられるのは辛い、と言い返してくるのだと思えて、ほっとした。
 そのことが少しだけ私の心に明るさを灯した。

 といっても、それは時と場合によりけりで、言い返されることに腹が立つことも当然ある。そういうときは私もまた遠慮なく応戦する。自分でも背筋が凍るような厳し言動に、だけど彼が受けとめてくれた。そのことがまた、私の心をわずかに緩める。

 少しずつ、だけど確実に濁った感情は浄化され始めていた。
 このままこうして過ごすうちに、私の歪んだ感情はなくなってしまうかもしれない。
 わずかな期待。

 最も、先のことなんてわからないけれど。

 激しい感情がおさまっても、好きという気持ちも一緒にどこかへ消えてしまうかもしれないし。
 素直な気持ちで付き合えるようになったとしても、付き合っているうちに全く別の問題が出てきて、あっさり別れてしまう可能性だってある。 
 或いは、私か、彼に、新しく好きな人が出来てしまうことだって。
 私たちの関係は、まだまだ浅く脆いから、何があるかなどわからない。

 でも、



 携帯が震える。
 彼からだ。
 出ると、少しだけ弾んだ声が聞こえる。

「今日は仕事が予定より一時間早く上がれそうだけど、会う時間を繰り上げられる?」
「……そんなに私に会いたいんですか?」
「会いたい」

 ストレートな物言いに私は黙る。それは照れてしまったからだけど、彼はいつもの「過去との比較」と解釈したのか、一瞬だけ空白が出来る。そして、その後で、もう一度、強い口調で言った。

「君に、会いたい」



 でも、

 それでも今、私は、過去の自分の愚かさを完全に許してしまえる日を。
 彼を好きだと素直に思える日を。
 そんな柔らかな時間がくることを願っている。【完】



2011/7/13

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