君じゃなくてもよかった。
瑠璃との付き合いは、驚くほど清らかだった。
大事にしたいから、なかなか手を出せない――という話を聞いたことがある。愛おしく思うほどに、迂闊に手出しできない。僕も初めはそうなのだと思っていた。だが、どうも違うらしい。半年経過する頃には、瑠璃に対して食指が動かないのだと認めざるを得なかった。
僕にとって瑠璃は妹でしかなかった。
家族を失い、天涯孤独になった僕は、その不安から、無邪気に懐いてくる瑠璃に救われた。その感情が愛に変わったと思っていた。おそらく、それは間違いない。僕は瑠璃を愛している。ただ、それは、男としてではなく、家族としてというものに極めて近い。僕にとって瑠璃は妹だった。
そのことに、瑠璃も勘づいたのか、
「あなたのこと、やっぱり兄としか思えない。別れましょう」
と切り出された。
正直ほっとした。少しは寂しく思う気持ちはあったが、これからは兄のような存在として瑠璃と接する。それが僕と瑠璃のベストな関係だと素直に思えた。
そして僕の心は静まった。
あれほど思い詰めていた感情が、勘違いだとわかると、憑き物が落ちたように穏やかさを手に入れた。
そうしていると、ふっとした瞬間、思い出すことがある。
脳裏に過る一人の人物。
真帆だ。
結局、あれから会いに来ることはなかった。
あの夜から、一度も会っていない。
今更になって、妙に気になる自分を可笑しいと思いながら、気付けば真帆のことを考えていた。
会いたい。
そう思っていること。
最初は、寂しいからなのだと解釈していた。一人身になってしまったことへの寂しさで、人肌を求めているのだと。時間が経過すれば落ち着いてくると。でも、いつまでもその気持ちはなくならなかった。それどころか強まってくる一方で。
会いたい。
もう一度彼女に。
会いに来るなら会いたい、というぼんやりしたものではなく、自分でも驚くほど真剣に、彼女に会いたいと考えていた。
どうすれば会えるだろうか。
これまで、僕から真帆に会いに行ったことはなかった。その必要がなかったから。僕が一人でいたくないとき、彼女は決まって僕の前に現れていた。だから、自分から会いに行こうと思ったことはない。
でも今は、
――会いたい。
真帆の連絡先ならば、知っている。
あれはいつだったろうか。いつも家に来るとすぐに抱く。瑠璃が彼氏と一緒にいるという現実を忘れたくて、情事に耽る。だが、その日は何故だがそういう気分にはならなくて、録画していたDVDを一緒に見ていた。確かその時、主演女優が何か別の映画に出ていて、それが思い出せず、モバイル検索をしたのだ。
「マンマ・ミーアに出てたよ」
僕が告げると、見せてと言われたので携帯を渡した。
――あの時、
「私のアドレスも入力しておいたよ」
なかなか返してくれないと思ったら、そう告げられた。
勝手にいじるなよ、と。見られて困るようなものはないが、プライベートなものだと叱った。真帆はしゅんとなっていた。その様子が妙に色っぽく感じられて、怒りのままに責め立てた。
あの時のアドレスはそのままのはずだ。
僕は携帯を取り出し、アドレス帳を探した。
案の定、それはあった。「まほ」と平仮名だ。自分の携帯と使い勝手が違い、漢字変換が出来なかったのかもしれない。僕は、まほと出た名前をクリックし、アドレスを呼び出す。
電話番号はなかった。メールアドレス欄だけに打ち込まれていた。でも、それはアドレスではない。ローマ字で、綴られた言葉。
SAKUYA.SUKI
頭が真っ白になった。
――なんだこれ。
真帆が僕に好意を持っていることは肌で感じていた。だけど、こんな風に言葉にされるのは違う。言いようのない焦燥感が迫ってくる。
それなら、何故僕に会いに来なくなった?
何故僕の前から姿を消した?
さよならも言わず。
いや、違う。
『じゃあね、咲哉』
最後の夜、真帆は僕にそう言っていた。
笑顔で。僕に向けて嬉しそうな顔で、『じゃあね、咲哉』と。
これまで真帆が僕に向けてそのような言葉を言ったことはなかった。彼女は朝になると黙って家を出て行く。僕は寝ていることもあったし、起きていることもあったが、その姿に声をかけることはなかった。面倒だったから。用が済んだら後腐れなく離れてほしいと、勝手に振る舞って、彼女を見送ることはなかった。一度も。ただ、黙って去っていく。それでも、彼女はまた僕の前に現れた。だから、それでいいのだと。僕は態度を改めることはなかった。
でも、あの夜は違った。
今にして思えば不自然だった。不自然なほど笑っていた。だけど、僕はその不自然さを無視したのだ。
――あれが、別れの挨拶だった?
――僕は、別れを告げられていた?
僕のことは諦めたと。
もういいと。
サヨナラを告げられていた。
彼女は僕に愛想をつかした。
うっすらとしていた事実が、避けていた事実が、認めたくなかった事実が、押し寄せてくる。激痛が体を駆け抜ける。味わったことのない感情とともに、心に広がっていく後悔。
そして、この時になって僕はようやく、自分の心がどこにあったのかを認めた。
僕は、彼女を好きになっていたということに。
***
時間だけ流れていく。
状況は最悪だった。
まず、何より問題なのが、僕は真帆に会う手だてがまったくないこと。
それでも、諦めの悪い心は、最初現実を拒絶した。
またひょっこり現れるのではないか、と。少しだけ期待していた。
だけど、そんなことはなくて。
年が明ける頃には、もう会うことはないのだと認めるしかなかった。
だけど、まだ希望を捨てきれず、人通りの多い場所を歩くとき、彼女を探している自分に気付く。似た人を見つけては、心臓がとまりそうになる。そして、人違いだとわかると、ほっとする。
まったく、笑ってしまう。
会いたいのか。
会いたくないのか。
どっちなんだと自嘲する。
だいたい、探して、どうする気なのか。
自分が彼女にとっていた振舞いを考えれば、ありえない行為だ。どれほど贔屓目にみても褒められたものではない。そんな男がどの面さげて「会いたい」など言えるのか。
それに、彼女は僕に愛想をつかして会いに来なくなったのだ。
今更会ってどうする? 悪かったと懇願する? 悪かった許してほしい。そして、愛の告白でもするか? ――冗談じゃない。そんな無様な真似。それで許してもらえるわけがない。ただ醜態を晒すだけだ。
それなのに。
やめられない――目が泳ぐ。探してしまう。心は、彼女を。もうそれは無意識と呼べる。至極当然のように、人ごみで彼女の面影を探している。それは時間を経過するほどに悪化しているように思う。近頃では、よく見間違えるのだ。幻を見てしまう。渇望。
だから、「またか」と思った。
彼女に似た人を見つけた。「あっ」と思って息苦しくなり、だけどまたいつもの錯覚だと。何度も繰り返しているのにひっかかる自分に笑えてくる。一体いつまでこれが続くのか。虚しさと、寂しさに打ちのめされながら、僕はそれでももう一度、「人違い」であるその人を見た。
でも。
その人も、僕を見ていた。
その顔からは感情を読み取れない。見たこともないような複雑な表情。僕を見て、どうしていいかわからないような、混乱しているように見えて。
何故、そんな顔をするのか。
僕の顔に、何かついているのか。
目の前の現実をすぐさま受け入れることは困難で、見当はずれな問いかけしか出てこない。
見つめる。
見つめ続ける。穴があくほど。
街中で立ち止まっている僕とその人は当然通行の邪魔で、不機嫌な男が「邪魔だ」とその人を軽く押した。その人は少しだけよろめいて、はっとなる。それからもう一度、僕を見ると半歩後ろに下がる。
逃げられる。
ようやく僕も自分を取り戻す。
――真帆、
そう叫びつかまえようとするが、喉が乾ききっていて声など出せない。
早く、捕まえなければ。焦る。
だが、予想に反して、真帆は一瞬の逡巡の後、半歩下げていた足を、もう一度戻した。
「山代さん。お久しぶりです」
発せられた言葉。
その目は確かに僕を捉えていたし、その唇は僕の名前を告げていた。
ぎこちないけれど、微笑みまで浮かべている。
――何故?
逃げ出そうとしながら、踏みとどまって、にこやかに話しかけてくる。その、真意が理解できない。嫌がっているわけではないのか。僕のことを嫌いになったのではないのか。
反応できない僕に、彼女はわずかに顔を歪めて、
「私のこと、覚えてらっしゃいますか?」
何を言っているのだ。覚えているも何も、この一年、忘れたことなどない。ずっと探していたし、ずっと会いたいと思っていた。その相手から「覚えているか」と問われている。何の嫌がらせだろうか。それは、僕が彼女を簡単に忘れてしまう程度に扱っていた、と突きつけられているのと同じ――実際に、そのような扱いだったけれど。
「……私に話しかけられてもご迷惑ですよね。でも、お元気そうでよかったです。それでは」
会釈して、今度こそ、真帆は背を向けた。逃げるのではなく、ゆっくりと去っていく。後ろ姿を見つめながら、僕は。僕は――。
「真帆。待って」
ギリギリ。僕の叫ぶ声がギリギリ聞こえる距離まで離れてしまってから、ようやくそう言えた。
2011/5/7
2011/6/16 修正
2011/6/28 修正