君じゃなくてもよかった。
彼に「やり直したい」と言われて、うなずいた自分に戸惑いを覚えた。どうして、私は承諾しまったのか。心に広がっていたのは迷いだったのに。すぐに返事をせずに保留にさせることも出来たはずなのに。私は首を縦に振った。それが本音だったのだろうか。
だけど。
「浮かない顔だね」
久々に会った美奈子さんに指摘される。
「もっと幸せいっぱいかと思ってた」
「幸せ……幸せって何だろうね」
目の前にあるアイスティーをストローでかき混ぜながら告げると、美奈子さんは愉快そうに目を細めて、ドラマにありそうなシチュエーションだねと言った。私は急激に恥ずかしくなって右の手の甲で頬に触れる。熱い。
「いろいろあったといえ、好きな男に告白されて、付き合って、それで不満そうな顔してたら、闇討ちされるよ? 世の中、遊ばれてポイさてちゃったままの子がいっぱいいるんだからさぁ。それとも……好きだった男になってた?」
最初の方はいたずらっ子のような物言いだったけど、最後の部分は静かに響いた。
美奈子さんの言いたいことはわかる。
相手にされていなかったことが必要以上の執心に繋がっていただけで、いざ、こちらを振り向いてくれたら途端に気持ちが冷めてしまう。好きでもなんでもなく、プライドが自分の気持ちを歪ませていた。正直なところ、そうなのではないかと心配していた気持ちはあったけど、
「彼を好きな気持ちに嘘はないよ」
「そう? だったらどうして」
――そんなに辛そうなの?
辛そうというか、辛い。そして、私の心はおそらく彼にも伝わっているだろう。
正式に付き合うようになって二ヶ月。私の心は自分でもわかるほど頑なさを増していた。傍にいて、一緒にいる時間が増やしていけば、過去のことなど忘れていける。新しい思い出を増やしていけば、解決される。とわずかに期待していた感覚は、私にはやってこなかった。
彼を、好きだ。
たとえば、デートの待ち合わせ。私は緊張と期待でどうにかなってしまうのではないかと思えるほど浮足立った。他の男性には感じたことのない高鳴りに苦い笑みがこぼれるほど、私は彼と会えることを嬉しく感じていた。もうそれはどうしたって好きで。これが好きという気持ちではないのなら、何を好きというのか。そう思う。
でも、いざ彼が目の前にやってくると、たちまち気持ちがしぼむ。
優しくされるほど、苛立ちに襲われる。
いけないと思ってこらえるけれど、私の態度は冷たくなる。そのことに彼は気付いているだろう。だけど何も言わない。彼は罪悪感を感じているのだ。だから、私のよくない態度を受け入れる。ただ、私を甘やかす。甘やかされると、私は悪くない、彼が悪いのだと錯覚する。そして時々、凍りつくようなことを私は言ってしまう。彼の傷ついた顔に後悔は募る。それでも、やめることはできなかった。
「許せないんだよ」
ふっと洩れた。
――許せない。
いつも飲み込んでいた言葉だ。許せない。何を? 許すも何も、彼が悪いのだろうか。私が自分で誘惑したくせに、彼を許せないなんておかしいじゃないか。許せないなんて言える立場じゃない。でも、許せない。それが心に広がる気持ちだった。
許せない。許せない。許せない。許せない。
無理やり押さえつけていた言葉を、繰り返すうちに、じわりと気持ちが滲む。
許せない。
「それは、彼を? それとも、自分を?」
「え?」
思ってもみなかった問いかけに頭はフリーズする。私は答えられず押し黙った。
***
許せないのは誰?
美奈子さんと別れてからも、問いかけは大きく強い言霊のように、私の中で蠢いた。それを紛らわせるように、町をぶらぶらと歩く。
季節は冬にさしかかろうとしていた。
思えば、一昨年の今頃は、彼のことばかりを考えていて(それは今もだけれど)、切なくて苦しかったけど、あの頃は今のような痛みはなかった。好きという感情に締め付けられるのみで、怒りは少しも感じていなかった。彼に抱かれ、たとえそれが身代りでも、好きな人に触れることが大事だと思えていた。
でも、今はもう違う。
携帯電話が鳴る。
メールだ。彼から。
付き合うことになった夜から、送られてくるメールの内容は変わった。私が返信に困る、と言ったからだろうか。それとも付き合うようになったからだろうか。「今何してる?」とか「今日は何があった?」と私の話を聞きだすようなメッセージになっている。今もまた、仕事が一息ついたからとメールをくれたようで、自分の状況を簡単に書いた後、「どこにいる?」と打ってあった。私はそれに、友人と会っていて別れたところ。町を散歩している。今から帰る。と返信した。すると少しして、「寒くなってきてるから風邪ひかないように」と送られてくる。
携帯を閉じ、鞄に戻し、メールした通り帰ることにした。
帰宅して、自室に入る。やけに寒いと思ったら、窓がかすかに開いていた。出掛ける前に空気の入れ替えをしたのだけれど、ちゃんとしまっていなかったらしい。近寄り、締め直す。今度は鍵もかける。わずかな隙間だったが、外の冷たい風が室内に蔓延しているせいか、屋内外の気温の差はないようで窓ガラスは曇ってはいない。すぐに、白くなるだろうけれど。
しばらくそのまま外を見つめていると、
許せないのは誰?
蘇ってくる問いかけ。不思議なもののように思える。
そんなの彼のことに決まっているじゃないか。と考えていた。だけど、彼を許せないと言える立場ではないとも考えていたから、許せないという言葉を飲み込み続けたのだ。でも、そうじゃない? 私が許せないのは、
すっと冷えていく感覚。頭を鈍器で殴られたような。
私が許せないのは、
脈拍が速まる。
彼ではない?
だったら誰?
それは、
私だ。
思いもよらずあっさりと出た言葉に驚きつつ、だけどこれが紛れもない答えであると腑に落ちてしまった。
彼のことではなかった?
苛立ちは、彼に対するものではなくて……彼を通して私に向けられたものだった?
――ああ、そうだ。
私は、自分がしたことが許せないのだ。
あの手この手を駆使して、使えるものは何でも使って、それで彼が振り向いてくれるならいいじゃないか。それが出来るのは本気だからでしょう? 綺麗事を言って、正攻法で勝負して玉砕しても意味がない。大事なのは好きな人と結ばれることだ。体から入った関係でも、そこから上手に付き合っているカップルはいっぱいいる。
そういう考え方もある。
でも。
だけど。
私はそんな風に結ばれることを、自分に許せずにいるのではないか。
行きついてしまった答えに愕然とする。
何故? せっかく、チャンスが巡ってきたのに。彼も私を好きだと言ってくれているのに。どうして、許せないのか。わからない。自分でも。それぐらい目をつぶって、過去のことなどなかったことにして、新しく初めていけばいい。私たちがどんな風に結ばれたかなんて、どうだっていい。大事なのは、結ばれて、その後だ。そう思うのに、でもどうしても私は見過ごせなかった。
体を使って落とした。
そんなつもりはなかったけど。
そう。あの時は、落とそうなんて思ってはいなかった。
ただ、彼の近寄りたかっただけで。
彼が私を好きになってくれるなんて思っていなかった。
だから、出来たのだ。
でも。
彼は私を好きになった。
私は、女を使って落としたのだ。
そのことにたまらない後ろめたさを感じている。
そして、体で落ちた彼を、尊敬出来ないと思っている。
つまらない男だと、どこかで軽蔑している。
わかってしまった事実は、どうしようもなく私を切り裂いた。
溢れ出るのは、後悔と、熱い涙で。
私は彼を蔑む気持ちが消えない。
そんな風に思うような真似を、自分がした。そのことが許せない。
どうして、あんな馬鹿な真似をしたのだろう。
どうして、あんな愚かな真似をしたのだろう。
たとえ振られても、真正面からぶつかれば良かった。
そしたら、彼のことを堂々と好きでいられたのに。
少なくとも、彼を蔑むようなことはなかったのに。
だから私は、彼が好きだけれど――彼とは一緒に、いられない。
2011/7/12