君じゃなくてもよかった。 > 1 / 2 / 3 / 4 / 5 / 6 / 7 / 8 / 9 / 10 / 11 > novel index
君じゃなくてもよかった。

 不穏だった。

 付き合い始めて二ヶ月。その場で了承を得られるとは思っていなかったから、頷いてくれた時は嬉しかった。だが、いざ恋人同士になっても、真帆の態度は堅いままだ。いや、どちらかというと付き合ってからの方が冷たくなっている。いつ別れようと言われるか落ち着かないほどに、真帆の葛藤は伝わってきた。

 苦しめている。

 体から始まる恋――そんなもの溢れている。ただ、僕の場合は最悪のケースだろう。一緒にいるうちに、それとなくいい雰囲気になって、ついしてしまった。勢いにまかせて抱いてしまった。でもそこには多少の好意が存在していた。というなら、まだ良かったのかもしれない。でも違う。誰でもよかった。彼女じゃなくてもよかった。気持ちを紛らわせられたら、誰でも。好意なくはじまった関係だった。
 そして、真帆はそのことを嫌というほど理解している。
 そんな僕が、彼女を好きになったと言っても、簡単に信じてもらえないのは当然だ。
 だけど、僕は本当に彼女を好きになった。
 自分のことしか考えていない僕を、それでも愛してくれた彼女に、気持ちが傾いた。だけどそれは、抱いていたからだ。体を通して伝わってくる温もりが、僕の心に沁み込んできて、彼女を好きになった。
 セックスしていて好きになった。
 それもまた真実で。
 言い方を変えれば、ほだされた。彼女の健気さに。僕は彼女を蔑み馬鹿にしながら、少しずつ彼女に尽くされることに幸福感を感じるようになった。そして今は、彼女を喜ばせたいと願っている。そういう気持ちに行きついたのだ。
 だが、遅かった。もう少し早くに気付いていれば、彼女が僕に尽くしてくれているうちにそう思えていれば――でも、今、真帆の気持ちは僕とは反比例していた。もはや彼女は疲れ切っている。

 どうすれば、彼女の気持ちをもう一度振り向かせられるか。

 考える。
 考えて、考えて。
 だが、早急に解決する問題ではない。
 それこそ、時間をかけてゆっくりと。
 それ以外に方法はない。

 だが。

 時間はもらえなかった。

「あなたとは付き合えない」

 日曜の昼下がり。入ったカフェ。嫌な予感がした。通されたのは一番奥の席で、賑わっている店内で、この場所だけは妙に静けさを感じた。まるで、これから起きることを知らしめているようだ。そしたら、案の定、注文し終え、店員が去った後、真帆は切り出してきた。様子を見てとか、雰囲気を作ってから、というのではなく、とにかく会ったら言おうと決めていたという感じだ。すぐに言わなければ、言えなくなるから。そういう迷いが垣間見えた。
 彼女はまだ迷っている。
 ここで混乱してはいけない。迂闊なことは言えない。
 僕は驚くほど冷静だった。予想していたからだろうか。 
 付き合い始めて、真帆から会いたいと初めて言われたが、喜びよりも不安を感じた。その予感に間違いはなく的中した。こういう勘は当たるものだと笑いたくなった。不釣り合いな感情が、状況のどうしようもなさを告げているようだった。
 やがて、店員が注文の品を運んでくる。アイスティー。
 真帆は一年を通して冷たいものを好むらしい。以前、見ていて寒くなるよと言ったら、じゃあ温かい飲み物にしようか、とふてくされたように言われた。嫌味で言ったわけではないのに、真帆は何かあるとくってかかってきた。そういう性格なのかと、何もなければ思っていただろうけれど、僕に対する不信感や苛立ちが僕の言葉を湾曲させているのだろう。その事実に切なさは増した。それでもこの二ヶ月、どうにかうまくいっていた。と、思っていたのに。

「僕は君と別れたくないし、別れる気はないよ」

 僕も率直な気持ちを伝えた。
 真帆は一瞬怯んだ表情をする。

「君が、僕に不信感をもっていることは知っている。信用できない人間と付き合えないというのもわかる。だけど、」「あなたを悪く思っているわけじゃない」

 言葉は途中で遮られた。

「あなたを悪く思っているわけじゃないです」

 繰り返される台詞。真帆は真っ直ぐに僕を見ていた。
 その目には、先程に見えた迷いがない。その事実に僕は緊張を強める。
 真帆は大きく息を吐き出した。それから、

「私はあなたが好きでした。だから私のことを好きじゃなくても、あなたに抱かれることを望んだ。それでいいと自分から誘惑しました。諦めるつもりでいたから。そうやって抱かれて、愛されていないのだと自覚出来たら、諦めがつくと思ったんです。でも、そんなことなくて。私はあなたを諦めることなんてできなかった。ただ、どんどん辛くなるだけで。だから会いに行くのを辞めました。馬鹿な真似をした。そんなことで諦められると思った自分にうんざりしました。でも、会わなくなれば忘れると思いました。だけど、おもいがけずあなたに再会して。あなたと付き合うようになって。そしたら今度は、不信感で一杯になった。私はあなたを体をつかって落としたのだと思うと。そしてその手にあなたはひっかかって好きになったと思うと。体から始まる恋――そういうものが世の中にはある。だけど、私はそんな風に結ばれることを受け入れられなかった」

 ゆっくりと、慎重に話された内容に、皮膚を引き裂かれ心臓をえぐり取られたような痛みが走る。
 僕を誘惑した大胆さを悔い、別人のように神経質な潔癖さで自分のしたことを嫌悪する姿。その揺れ幅の大きさに戸惑う。ただ、でも――彼女はまだ十九歳だ。背伸びしていた。その反動が、執拗なほどの潔癖さに繋がったとしても不思議はなかった。だが、 

「でも、それは結果論で……別に君は僕を体を使って落とそうとしたわけじゃないだろう。それに僕だって、君とセックスがしたいから好きになったわけじゃない。確かに君を抱いているうちに、君の健気さに打たれて好きにはなったけど、君の体に目がくらんだわけじゃない。全てを一緒に考えるのは乱暴すぎるだろう?」

 諭すように言ってみる。

「私は、そんな風に思えない」

 真帆はキッパリと撥ね退けた。
 理屈ではなく、気持ちがついていかないのだと。そう言われて、僕は黙った。

「思えば、私は最初からあなたとの未来を思い描いてはいなかった。あなたが私を好きになってくれるなんて思ってなかった。最初から諦めることを前提に行動した。あなたと結ばれると、付き合いたいと思っていたら、こんなことはしていなかった。でも私はあなたを誘惑した。そのことが悔やまれます。どうして私はダメだと思ったんだろう。どうして最初から……」

 言いながら、堪え切れず彼女は涙する。
 それは、初めて見る光景だった。
 これほど、思いつめていたのかと、胸が詰まる。立ち上がり傍によって濡れた頬を拭ってやりたいと思う。だが、僕に触れられることを真帆は嫌悪するだろう。目の前で泣いている姿を、慰めることも出来ないような、僕がしてきたことはそう言うことなのだと突きつけられる。

 君じゃなくてもよかった。
 誰でもよかった。

 そんな風に、相手を見ずに、適当に振舞ったことを、今、死ぬほど後悔する。人をないがしろにして、自分のことしか考えずに過ごした日々を、そんな自分を。

 だけど、それでも僕は、

「真帆――君が好きだ」

 こみ上げてくる気持ちとは裏腹に静かな声が出た。
 真帆は俯いていた顔を上げる。濡れた瞳を僕は見つめた。

「僕は君が好きだ。それはもうどうしたって真実だから。君は自分のとった行動を後悔し、責めているけれど、でも僕は、君がそうしてくれて嬉しかった。確かに……褒められた行為ではないのかもしれないけれど、もっと正攻法なやり方があったのかもしれないけれど、僕は君がとった行動を間違いだとは思わない。たとえそれを君が受け入れられなかったとしても、あの夜、君が僕を誘惑していなかったら、僕は君を好きにならなかったと思うし、君以外の誰かの誘惑にのっていても、やっぱりその人を好きになっていたとは思えない。あの時、僕は、誰でもいいと思っていたけど、セックスして好きになりましたというと聞こえは良くないけど、僕が好きになったのは君だ。それではダメだろうか」

 真帆もずっと僕を見ていた。
 その目にある感情もまた静かだ。

「はじまり方は、けしていいものではなかった。そのことを変えることは出来ない。君はまだ若いし、これから新しい出会いだってたくさんあるだろう。君が納得出来る出会い方をして、始められる恋愛がでてくるだろう。だから、こんな風にしか出来なかった僕との関係を続けることが君にとっていいかと考えたら、きっと僕は身を引くべきだと思う。それでも僕は君が好きだ。大切にしたいと思っている。それではダメだろうか」

 話しながら、僕は不思議と焦りを感じてはいなかった。
 彼女がどういう決断をするにせよ、僕が彼女に伝えられる言葉を全て伝えておこう。そのことに意識が集中する。

「過ちを繰り返さないことはできる。それを信じてほしいというのは都合がいいとも思うが、君が自分を責めずにすむように、君を愛したい。それではダメだろうか」

 真帆は黙ったまま僕をただ見つめていた。



2011/7/12

  

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