君じゃなくてもよかった。
僕は繰り返し呟く。
君じゃなくてもよかった。
君じゃなくてもよかった。
それは本当だ。
あの頃、僕は、とても傷ついていて、
誰かの温もりが欲しくて、
たまたま君に出会って
君の好意を感じて
僕に向けられたそれをどうしようが許されると思った。
君の気持ちを消費することに少しの躊躇いも感じず
ただ自分のためだけに受け入れた。
僕の傍で幸せそうに笑う君に罪悪感もなく
それどころか間抜けだなって嗤って、好き勝手に貪った。
なくなってしまってもいいと、粗末に扱い、
変わりならすぐに見つかるだろうと疑わなかった。
だけど、
君じゃなくてもよかった。
その言葉に、今は復讐されている――
茂垣利一。両親を失い天涯孤独になった僕を引きとってくれた恩人。
母のかつての恋人だと、利一は包み隠さず僕に告げた。出世のために別れた。母は何も言わなかった。ずっと気になっていた。何もしてやれなかった彼女へのせめてもの償いに、君の世話をしたい。
馬鹿正直な申し出を僕は受け入れた。そうでなければ、明日食べていくのも困る。生きていくための選択。
やがて月日が流れ、僕は利一の会社に就職した。利一の秘書として。
認められたのだと思った。必死に勉強して、有名大学を出た。頑張った甲斐があった。
それもこれも全ては茂垣瑠璃のためだった。茂垣瑠璃。利一の娘。
両親を失い、絶望していた僕にとって、天真爛漫な瑠璃の存在が救いだった。無邪気に懐いてくる姿に癒された。その気持ちは自然と愛に変わった。八歳も年下の女の子だけど、僕は瑠璃を愛していた。
だが、その気持ちがバレれば、僕は家を追い出されるかもしれない。利一は瑠璃を溺愛していた。知られるわけにはいかない。感情を殺して心の中だけで愛した。
そして、僕は計画したのだ。
まず、利一に認められよう。
そうすれば、利一は僕と瑠璃との将来を考えだすのではないか。昔、愛した女の息子と、自分の愛娘が結ばれる。究極のロマンを夢見始めるのではないか。そのために努力した。だが、
「瑠璃には家柄の釣り合う男と結婚させる。いつか、瑠璃が結婚し、婿をとったら、お前が支えてやってくれ」
聴き間違いかと思った。だが、利一は言った。そのために、僕に仕事の仕方を叩きこむ。優秀な人材に育て上げると。僕は鼻から論外だった。天涯孤独の、何の後ろ盾もない僕など。
何を夢見ていたのだろう。馬鹿らしい、愚かな夢。僕こそとんでもないロマンチストだ。あまりにも間抜けすぎて涙も出なかった。
それから間の悪いことに、瑠璃に彼氏が出来た。無論、利一には内緒の付き合いだ。利一から瑠璃の送迎を頼まれていた僕は、瑠璃が彼氏と会う日は工作を強いられた。好きな子が他の男とお楽しみの時間のアリバイ作り。こんな惨めなことがあるだろうか。
――もう何もかも辞めてしまおうか。
全て捨て去って、どこか遠くへ。そんな刹那的なことも考えた。
そんな時、彼女が現れた。
「寂しそうだね。私が付き合ってあげようか」
軽い口調だったけど、射ぬくように真っ直ぐ見詰めてくる目が印象的だった。
人肌に触れている間は、嫌なことを忘れていられる。
僕は誘われるままに彼女と関係した。
彼女は不思議と、僕が一人でいたくない時にだけ、ふっと現れる。何も聞かず、何も話さず、ただ、夜の間ずっと、僕を抱きしめて、寂しさを忘れさせてくれる。そうして、朝になると消えてしまうのだ。
――幽霊か何かだろうか。
そんなオカルトチックなことを思うほど、彼女の存在は現実離れして見えた。
だってそうだろう?
彼女は僕に一切何も求めてはこなかった。それどころか、僕のことを知ろうとすることも、自分のことを話すこともない。ただ、僕の前に現れて、一夜を共にする。それだけの関係。
彼女もまた寂しいのか。
それとも、快楽を求めているのか。
だが、どちらも違う気がした。何故なら、彼女から好意を感じたから。
そう。僕が彼女と共にいて、寂しさを忘れられたのは、快楽に溺れているからだけではない。彼女から与えられる刺激には間違いなく僕への好意が存在した。体だけの関係ではなく、彼女の心が。そしてそれを好き勝手に扱うことで、利一や瑠璃にないがしろにされている自分の心をを慰めていたのだ。
全く非道な振る舞いだ。それでも僕は躊躇いなく、彼女の好意を貪った。嫌ならやめればいい。引きとめない。君が来るから僕はそれを受け入れる。それだけのことだ。別に彼女でなくてもいいのだから。そうやって、彼女の気持ちを消耗し続けた。
それでも、彼女は僕に文句をつけなかった。
――便利な女だ。
内心馬鹿にした。軽蔑だってしていた。反面で、ありがたかったのも事実だ。僕は相当参っていたから。弱っている僕にとって、好きに振る舞える彼女の存在は重宝だった。このまま都合よくいてくれればいい、と願っていた気持ちは否定しない。
だけど、やはりそれほど上手くはいかない。
彼女と一緒に過ごしていた夜。携帯が鳴った。瑠璃だ。彼氏と喧嘩したから迎えに来てほしい。勝手な内容に、だが僕の心ははずんだ。
利一を味方につけるなど遠回りをせず、直接瑠璃を物にしてしまえばいいのではないか。
彼氏と喧嘩したなら好都合。今、漬け込むチャンスだ。最初からそうしていればよかった。何故、そのことに気付かなかったのか。酷く頭の悪い自分が可笑しかった。
僕はすぐに瑠璃を迎えに行くことにした。
「どこに行くの?」
声がした。忘れていた。彼女がいたのだ。
僕をじっと見ている。面倒だから無視して身支度を整えていると、
「行かないで」
――は? 何言ってるんだ、この女。鬱陶しい。
脳裏に浮かんだのはそんな言葉だ。つい今しがたまで役に立ってはいたが、もはや邪魔だった。まして、勘違いしたようなそんな言葉を告げるなら殊更だ。
どう言って追い帰そうか。
考えていると先に、
「冗談よ。ごめんね」
そう言って、自分も身支度を整え始めた。
冗談? 本当に? 告げられた言葉の持つ質量は、とてもではないがそうは思えなかった。それでも、そのことを突き詰めても面倒が起きるだけで、ろくなことにはならない。本人がそう言うなら、そういうことにしておく。何より瑠璃のところへ急がなければならなかったから。
先に身支度を整え終えたので
「別に急がなくていい。ゆっくり着替えて、出ていけばいい。鍵を閉めたらポストにいれておいてくれたらいい」
テーブルに置く。
だが、
「待って、もう少し。一緒に出るよ。お願い」
返された。
舌打ちが出なかっただけましだと思う。
本当は先に出てしまいたかった。留めさせたのは、先程の言葉が脳裏をかすめたから。
考えてみれば、この女は僕のことを何も知らない。つまり、僕に好きな人がいることも。そういうことには触れずに続けてきた関係だった。だけど、さっきの電話で知った事実。動揺している。と、したら、一人残していくのは危険だ。衝動的に何かするかもしれない。物を盗まれたり、最悪自殺とか。冗談ではなかった。追い出さなくてはいけない。
仕方なく待つ。
それで五分のロス。忌々しく思いながらも一緒に部屋を出た。
エントランスで別れる。僕は駐車場へ、彼女は玄関へ。送ってくれなど言われたら、キレていたかもしれないが、流石にそこまで厚かましくはないようだった。ほっと胸を撫で下ろし、背を向けようとすると、
「じゃあね、咲哉」
僕の怒りや嫌悪感などお構いなしに、嬉しそうに言う。
毒気を抜かれるとはこのことだ。考えていたような深刻な状況にはならない。安堵したら途端に苛立ってきた。妙な心配させられたことに。だからその言葉は無視した。少しだけせいせいした。
***
瑠璃と付き合うことになった。
拍子抜けするほどあっさりと上手くいった。やはりこれが正当な運命だったのだ。だからこそ、すんなりと事が進んだ。僕はそう解釈し、掴み取った長年の願いに喜んだ。
だが、胸の中には一つの気がかりがあった。
――真帆。
瑠璃への想いが叶わぬものだと考えていた頃、絶望感を紛らわすために関係を持っていた女。
体だけの関係。付き合っていたわけではない。
ただ、真帆がどう思っていたか。
関係している間、何かを求めてきたことはなかった。都合よく付き合えていた。馬鹿な女だと揶揄りながら、便利に扱っていた。
だが、瑠璃と付き合うことになった夜はいつもと勝手が違った。
『行かないで』
瑠璃から連絡が来て、迎えに行こうとしている僕に告げた。すぐに冗談だと否定したが、怪しい。
正式に瑠璃と付き合うことになった今、他の女と関係を持つ気はない。次に現れたら後腐れなく別れなければ。だが、あの様子だと下手をすればこじれるかもしれない。逆上する可能性を危惧しなければならない。考え出すとイライラした。早く全てを終わらせて、瑠璃のことだけを考えたい。会いに来るなら早くこい、と思った。
しかし、真帆はやってはこなかった。
これまで、少なくても週に一度は来ていたのに。パタリと来なくなった。
もしかして、あの夜、瑠璃からの電話に出た僕の態度に、何かを感じ取ったのか。
それで来なくなった? 自分は不必要な人間だと悟った?
そんなに敏感で繊細な女とは思えないが、そうであるならば好都合だ。面倒がなくていい。よかったと思えばいい。だけど、
――イライラする。
確かに適当な付き合いではあったが、終わりにするならするで、「これで終わろう」と告げて、綺麗サッパリするのがマナーではないのか。いくら、体だけの関係とはいえ、一線を越えているわけだから、それぐらいの礼儀はあってもいいのではないか。
ほとほとつまらない女だった。
だけど、すんなり終われたから、それでいいか。
僕には瑠璃がいる。だから真帆のことは考えないことにした。
2011/4/26
2011/6/16 修正