君じゃなくてもよかった。
会いたいと思っていた人。だけど、会えないと思っていた人。
その人が、目の前にいる。
私は咄嗟に逃げようとした。受けとめられなかったから。
だけど。
踏みとどまった。
何がそうさせたのか、自分でもよくわからない。
ただ、ここで、逃げ出しては一生後悔するだろう。それは確かだった。だから、
「山代さん。お久しぶりです」
声が震えそうになりながら紡ぎだした言葉。
なるべく普通に、自然に。
でも、彼は答えてくれない。
その目は私を見ているのに。
急激に襲われる恐怖。
もしかして、もう忘れた? ――流石にそれはないだろう。でも、
「私のこと、覚えてらっしゃいますか?」
尋ねた。彼は相変わらず黙って、私をじっと見ている。その眼差しが意味するものは何なのだろうか。怖い。聞きたくないことを言われるのではないか。冷たいことを言われるのではないか。やはり声などかけるのではなかった。失敗した。私と彼は仲良く出来るような間柄ではなかった。
「……私に話しかけられてもご迷惑ですよね。でも、お元気そうでよかったです。それでは」
自虐的な台詞が出る。
私は背を向けて、来たばかりの道を戻る。目的地は先なのに後戻りしてどうする気なのか。だけど、彼の傍を通り抜ける勇気がなかった。越えられない。彼を。未だ、全然。先には進めない。それでも逃げ出したと思われるのは嫌だった。ささやかなプライド。走らないで、ゆっくりと歩く。後もう少し、あの角を曲がってしまえば私の姿は見えなくなる。そこに行くまで、と奮い立たせる。けど、
「真帆、待って」
声が聞こえる。
彼の。
呼んでいる。
私を。
振り返ると、苦々しげに顔を歪めた彼が、駆け寄って来ていた。
***
目の前に彼が座っている。
近くにあったカフェに入り、向かい合って座っている。
彼に呼びとめられた後、「時間ある?」と誘われたのだ。その表情は硬かった。彼から誘ってきたのだし、少なくとも私を迷惑がっていないのだろうけれど、懐かしさからとか、親しみから、という理由で誘っているわけではなさそうだ。それでも私はうなずいた。そして今に至る。
店員がホットコーヒーを二つ運んでくるまで、会話はなかった。運ばれた後も、沈黙状態。
空気が重い。
手持無沙汰だったので、砂糖とミルクを淹れてかき混ぜる。落ち着かない時は甘い物で気持ちを満たす。それならばケーキを注文するのがいいのだが、その勇気はなかった。だからせめてコーヒーを甘くして飲む。カップを持ち上げて口をつける。苦みと甘さ。混ざり合わずにどちらも存在する。
「突然、来なくなったから、心配していた」
前置きなく切り出された言葉は、優しいものだった。
聞かされて悪い気はしない。 ただ、胸中は複雑に鈍った。
冷たくされるのではないかと怯えていた。だから、優しくされてほっとした。だけど、優しいことを言われると今度は腹立たしさが浮かんでくる。相手が下手に出てくるとつけ上がるというものなのか。私は込み上げてくる強い憤りを飲み込む。喧嘩をしたいわけではないから。
「すみません」
手短に答える。
「いや、別に責めているわけではないんだ」
彼はすかさず告げた。
責められるような関係ではないですからね――と出そうになる言葉をまた飲み込む。
溢れてくる怒りは、好きの裏返しだ。自覚はある。好きでいた分、辛いと感じていた気持ち。だけど、私が自ら望んでしたいたことだから、それを彼に告げることは出来なかった。言えば「じゃあ、もう来るなよ」と宣告されただろう。そうならないように、内側に押さえこみ続けた切なさが急浮上している。あの頃、私が言いたかったこと。不満に思っていたこと。
「私は、」
涙が出そうだった。
今も、痛む気持ちに。
愚かだったと思う。本当は、あんなことするべきではなかった。ただ、辛いだけで、惨めになるだけで。どうしてあんな真似をしたのか。どうしてあんなにも思い詰めていたのか。好きだったけど。彼のことを好きで。好きと言う気持ちに押しつぶされて。あの頃、私は、ああすることが唯一の方法だと信じた。心が伴わない逢瀬など寂しいだけだと頭ではわかっていたけれど止められなかった。熱に浮かされて。
「私は、」
だけど、それ以上はどうしても言葉にはならなかった。
***
「またそれは劇的だね」
美奈子さんは言った。
彼女と知り合ったのは半年前だ。友人の友人で、コンパに来ていた。その時のコンパは悲惨なもので、明らかにヤルことが目的の、一夜の相手を求めている男の子たちだった。ギラギラした感じが嫌だったが、同席した女の子たちはもっとそういうのは受け付けないようで、場の空気が淀む。それにいたたまれなくなり場を盛り上げるように、そういう男の子から女の子を守るように振る舞っていた。それに協力的だったのが美奈子さんだ。美奈子さんは二つ年上になるのだけれど、そういう男の子のあしらい方が上手かった。共通の目的を持って何かを行うと結束が生まれるのか、以降、仲良く付き合っている。
私は誰にも言えなかった彼との話を、美奈子さんだけには出来た。この人に私がしたことを話しても、肯定も否定もされないだろうなぁと思えたからだ。
案の上、美奈子さんは
「まぁ、長い人生そういうこともあるわ。愚かさは人間らしさでもあるわけだし、あたし、そういうの好きよ」
と笑った。
私はその言葉にとても救われたのだ。
そしてまた、私は彼に再会してしまったことを美奈子さんに話した。
すると言われたのが「劇的」という言葉だった。それもどこか楽しげに。
「それで、どうするの?」
「どうするって……」
「連絡、くるんでしょう?」
あれから結局、私は何も言えず、彼もまた何も言わず、時間だけが流れ、特に何も話さないまま別れた。ただ、帰り際に連絡先を聞かれたのだ。
「どんな内容のメールが来るの?」
「……ドラえもんカメラが発売されるらしいですが、色はシルバーとブルーがあるそうです。ドラえもんカメラならブルーのみでいいと思う。とか」
「……」
「久々にテレビを見たら、テレビドラマのエンディングで世良 公則が変な踊りを踊っていて愕然とした。とか……って笑いすぎでしょう?」
声を出してケラケラ笑う美代子さんに私は言った。 まぁ、笑われても仕方ないような内容だけど。 これを私に送ってきて、一体どうしたいのか。それ以前に、私は何と返せばいいのか。困り果てる。いつも。
「ごめん。でも、あまりにもどしようもない内容だからついね」
「意味がわからないでしょう? こんなの送ってきてどうしたいんだろう?」
「気を引きたいんでしょう?」
「気を引くような内容じゃないと思うけど?」
「だからいいんじゃないの?」
ふふっと笑う美奈子さんに私はわからないという目線を送る。
「言葉巧みに、思わせぶりな、すんごい色気振りまいてくるようなメールの方がわかりやすいかもしれないけど、そうじゃないのは真帆のことを軽々しく考えてないってことじゃない? 少なくとも、またヤりたいってあからさまな感じがしないのは好感が持てる」
「分からないよ。こういう感じで油断させて、心許したところでまた……って思ってるかも」
「うーん。どうかな。それはないんじゃない? 再会して三ヶ月ぐらいこんな感じで三日と開けずメールくるんでしょう? 体目的なら、もっと短期だと思うよ。それこそ気を持たせるような内容を送ってきて、それに乗ってくるかどうかみるんじゃないの? で、脈なしとわかれば即効切られて、他のヤれそうな女に時間裂くと思う」
「そうかなぁ……」
私は首をかしげる。
美奈子さんが言うことは一理あるけれど信じきれない。
「それにさ、……まぁこれは真帆にはちょっとキツい話になるけど、その男って遊び人ではないと思う。好きな女がいて、その女が振り向いてくれないからヤケになって真帆と関係していたことは誉められた行為ではないよ。真帆の気持ちを考えない最低男だって、真帆の友達としては思う。だけどその男から誘ってきたわけじゃないじゃん。据え膳食わぬは男の恥って言葉もあるくらいで、寂しい気持ちのところに誘ってくる女がいてそれに乗っかっちゃうのは弱さではあるけど、ありえるかなぁとも思う。性欲から女を求めるのと、寂しいから誰かに慰めてもらいたくて女を求めるのとはちょっと違うからね。この人は、少なくとも女を性欲の道具とみているわけじゃないんじゃないの?」
「……それは、」
そうかもしれない。
彼が女を求めたのは、メンタル的な意味合いが大きかった。
「そうでしょう? 弱い男ではあるけど、悪い男とは違うと思うよ。その男が、こうしてメールを定期的に送ってくる意味をもう少し好意的に受けとめてみてもいいと思うよ?」
「好意的に……」
「そう、好意的に」
美奈子さんは満足そうに笑った。
***
美奈子さんと別れて帰宅する。
家にたどり着いてベッドに横になると、言われた言葉が蘇ってくる。
『この人は悪い男ではないと思う』
ズーンと沈んでいく感覚。
一緒になって悪口を言ってほしいわけではなかったけど、堪える。でも、堪えるということは図星だからだ。
確かに、美奈子さんの言うことは最もだった。
人と人との関わりは互いに作り上げていくもので、だからどちらか一方だけが悪いなんてことはまずない。相手との関係が居心地の悪いものならば、そうなるような態度を自分がとっていたのではないか。省みる必要がある。そうすると見えてくるもの。
彼に対して、まさにそうだった。
私は、それでいいよ、と彼に近づいたのだから。
私のこと、ないがしろにしてもかまわない、と。
自分で誘惑した。
それに彼は乗ってきただけ。
自ら仕掛けておいて、彼を体目的だと言うのは自分勝手だ。彼はけして遊び人ではない。悪い男でも。私がけしかけなければ、あのような関係にはならなかった。その通りだ。けれど、どうしても彼を非難したい気持ちが消えない。彼を体目当ての男だと糾弾して罵りたい。私の態度がそうさせたのだとしても、許せないと怒りをぶつけたい。責めて、責めて、責めて、彼だけを悪者にして、全部忘れられたらどれだけ楽かと思う。たとえ、それが卑怯なことだとしても、楽になりたい気持ちが私を揺さぶる。
そうしていると、携帯電話が震えた。
鞄から取り出して、確認する。
サイドディスプレイに「山代咲哉」の文字。
開いて見ると、
「掃除をしていたら、以前に気まぐれで買ったルービックキューブが出てきたので、戯れにしてみたら意外とはまりました」
黄色の一面だけそろった写真の添付まである。
――これを送られて、私はどうしたらいいの?
いつもの疑問が浮かんでくる。
何のつもりでメールを送ってくるのか。不明なのも苛立たせる。
『好意的に受けとめてもいいと思う』
美奈子さんはそう笑ったけど。
好意的――
私のことが好きなの?
離れてみて、恋しくなった?
仮にそうだったとして、彼は私の何に魅かれたの?
彼は私のことを何も知らないではないか。ただ会って、セックスしていただけだ。彼が私に言い寄ってきているとすれば、セックスの相性が良かった。それに惹かれているとしか思えない。
私のセックスが好き。
だとしたら、顔が好き。性格が好き。と同じ意味合いで、それを受けとめればいい。精神的な結びつきの方が上だ、と言うつもりはない。精神的だろうが、肉体的だろうが、惹かれるものがあればそれでいい。そう思う。頭では。でも、心はついていけない。納得など出来ない。情けなくなる。セックスが好きなんだ、と言われて嬉しいとは思えなかった。現実は私の気持ちを重くさせる。
そして、思い知らされるのは、私は彼との入り口を間違えてしまったこと。
私は、恋の仕方を、間違えたのだ。
他にやり方はなかったのだろうか。たとえば、正面からぶつかっていくとか。何故、潔くならなかったのか。そのことが悔やまれる。
彼の寂しさに付け込んで、男の性欲に付け込んで、姑息な手段で手にしたつかの間ぬ温もり。惨めになるだけのそれでもいいと、縋りついて求めた。
もっと割り切れると思っていたのだ。
もっと賢く立ちまわれると自惚れていた。
だけど、実際は違って。
今になってそのことに苦しめられている。
彼と向き合えば、おのずと自分の愚かさを認識させられて辛い。
逃げたい。逃げ出したい。
それなら、彼からの連絡を拒否して、もう二度と関わらないようにして、なかったことにしてしまえば、私の心は苦しみから解放されるのだろう。でも、彼から送られてくるメールを拒否する勇気はない。
この中途半端さがますます状況を悪くしている。完全に過去の人と思えたら、或いは、まだハッキリと好きだと思えたら、行動を一つに決められる。だけど私はどっちつかずだ。彼に対する想いは複雑にからまっていた。近づくことも遠ざかることも出来ない。ごった返す感情がたまらない気持ちにさせる。私は、どうすればいいのか。見えない。わからない。
そして、結局、どうにもならないまま、ただ、時だけが経過して――
「食事に行きませんか?」
再会して五ヶ月。
定期的にメールが送られてきていたけれど、会おうと言われたのは初めてだった。
会いたい?
会いたくない?
――両方。
携帯を睨みつける。
会いたい?
会いたくない?
もう一度、自問。
そして、私は――会うことにした。
会って顔を見て話をして、自分がどう思うのか。彼どういう態度をとるのか。それを見て答えを出そうと決めた。
2011/6/22
2011/6/23 後半部